「70年目のきけわだつみのこえ 『自由主義者』上原良司の特攻死をめぐって」


「あの人には二面性がある」とか、「あの人には裏表がある」とか言うときは、よくないという評価の気持ちを込めている。「二面性」のある人はよくない、「裏表」のある人は信用できない、一般的にはそういう見方がある。けれど、「二面性」とか「裏表」とか言うけれど、自分は一貫して同じ考えを持っていて、それを曲げないできたという人でも、何かがきっかけで考えや態度をころっと変えてしまうこともある。あることをきっかっけにして、それまで好感を持っていたのに、拒否感を抱いてしまうこともある。性格で人を見る、思想面で人を見る、感情面で人を見る、行動面で人を見る、人を見る時の見方は多面的だ。ある人の行動を見て腹を立てた。けれどその人の行動もその人の一面にすぎない。相手にも多面性があり、自分にも多面性がある。人間は多面的なもの、いろんな顔があり、いろんな考えや思いが頭の中にある。「君子は豹変す」という言葉のもともとの意味は、豹は、毛が生えかわると鮮やかさが一新するように、君子はあやまちを認めて考えを改めるものであり、そうすると面目を一新して別人のようになるということだった。それが今ではこの言葉は、ころころ態度や行動を変える、堅固な意志をもたない人間を批判する意味に使うようになった。ころころ変わるのも困るが、頑迷固陋な、人の意見に耳を傾けない「石部金吉金兜(いしべきんきちかなかぶと)」も困る。

 「季論21」春号に、「70年目のきけわだつみのこえ 『自由主義者』上原良司の特攻死をめぐって」という論考が掲載された。筆者は松本市在住の手塚英男氏。
 上原良司の遺書は、戦没学徒の遺稿集「きけわだつみのこえ」の冒頭に収められている。安曇野の池田町で生まれ穂高町で育った上原良司は、慶応大学進学後、学徒動員で特攻隊員となり、出撃して死んだ。その上原の思想と生き方をたどり、自由主義者としての上原と、国に殉ずる愛国者としての上原の二面性を筆者は考察して、これまでの上原良司像を再検証している。
 戦後、池田町の丘の上には、上原良司を顕彰する石のモニュメントが建てられた。そこには上原の、出撃前に遺した所感の一節が彫られている。

     きけ わだつみのこえ
   自由の勝利は
   明白な事だと思ひます   
   明日は自由主義者
   一人この世から   
   去っていきます
   唯願はくば愛する日本を
   偉大たらしめん事を
   国民の方々に
   お願ひするのみです

 手塚英男氏は、このモニュメントについて、池田町の戦没者から見た複雑な思いを述べている。
 池田町は、人口1万人ほどの町だった。そこから戦地へ出ていって死んでいったのは390余人、帰還者は474人。満蒙開拓団員として参加した237人のうち、死者は92人、未帰還・不明9人。では、これらの死者の死はなんだったのか。なぜ上原良司とともに語り継がれてこなかったのか。モニュメントを見ると、顕彰されたものと忘却されていくものとの落差を感じる。
 そして手塚英男氏は、上原良司のなかの裂かれた思いを追っている。
 上原良司は学徒動員で入隊しすすんで幹部候補生となる。英米への戦争の詔勅が下ったとき、上原良司は歓声を上げ、東条首相の演説に心を打たれたことを記している。そのような愛国の心情あふれる上原の一面と、学生として学んできたイタリアの歴史学者で反ファシズム思想家クローチェの自由主義を信奉し、人間の自由と尊厳を主張した一面と、この二面の違いをどう見るか。
 なぜ彼は幹部候補の道を拒み、ファシズムに抵抗し、生き方としての自由主義を貫けなかったのか。貫けなかったのか、それとも自らの意志で貫かなかったのか。
 カッパ・ブックス版「きけわだつみのこえ」のあとがきの文章を紹介して、手塚英男氏は、最高学府の学生たちの戦死とともにもう一つの戦死をとらえてほしいと提起する。
 「こちらだけの死者だけでなく、あちら側の無数の死者に、想像力をめぐらしてほしい。同じ日本兵のなかの農民兵士や一般兵士、非戦闘員でありながら殺された一般住民とのかかわりを想い起してほしい。アジアの人びとへの加害の意識や戦争への抵抗の姿勢が乏しいのはなぜか考えてほしい。」
 そして手塚英男氏は、
「良司が語られるとき、この問題提起がどれだけ共有され深められたのでしょうか。」
と問いかけ、良司の再検証を行なうための論点を述べている。
1、地域の視座からの良司論を。
 たとえば良司の故郷の次の人たち。
 満蒙開拓青少年義勇軍に送りだされて現地召集され、19歳で戦死した矢口亀弥。
 瀕死の病床にある妻と、子ども二人を残して召集され、ソ満国境で戦死した小林幸雄34歳。
 一家あげて満蒙開拓に送りだされて現地召集され、シベリア捕虜収容所で死亡した37歳宮下守男と、栄養失調で死んでいった残された妻と4人の子ども。
 地域に忘却されているこの人たちの不条理を明らかにし、地域の戦争史のなかに良司を置くことで、今まで見えなかった本質が見えてくるのではないか。
2、美辞で形容しない良司論を。
 自己犠牲をほめたたえ、美化しロマン化することでなく、良司の死を冷静に語られるべきではないか。
3、自爆死を意味ある死にしない良司論を。
 良司の死を厳格に語ってこそ戦争の不条理を徹底的に告発できるのではないか。
4、「祖国・家族」を問い直す良司論を。
 良司の日記や遺書の中に「祖国」がしばしば登場する。あの時代、祖国や家族はどんな意味を持たされ、特攻兵を呪縛したのだろうか。その再吟味なしに、祖国・家族と良司を結びつけて論じることはできない。
5、特攻兵を相対的にとらえた良司論を。
 抵抗の歴史を併せて語らないと、あの時代を生きた若者を語ることはできない。
 旧制松本高校には、貧困や抑圧や、戦争に反対する学生たちの抵抗の歴史があった。治安維持法で弾圧・逮捕された、五次にわたる「松高事件」があった。獄中死した布施杜夫、塩原昇などがいる。布施杜夫、塩原昇の死が伝えられたとき、教室に入ってきたドイツ文学者の手塚富雄教授は無言のまま黒板に、
   すくすくとのびしタンポポ折れしいたましき
と書いた。松高出身の作家、辻邦生はひとり孤独に出征を忌避した。

 手塚英男氏はこの論考の最後に、
「強制と呼応」「抵抗と非抵抗」「諦念と受容」、このテーマから良司を読み解いていく必要があるのではないかと提起している。
 なぜ、今?
 それは「呼応するか、しないか」、「抵抗するか、しないか」、「あきらめるか、あきらめないか」、
 この二面の葛藤、対立が激しくなりつつある現代であるからだ。この国、この社会、この世界は、問い続けることを求めている。