「十七音詩」<1>

 書棚を整理していたら、「十七音詩」という俳句の同人誌が十数冊出てきた。昭和50年、51年に発行されたものだ。同人誌は木村さんが購読しておられたもので、2001年から2005年まで住んだ奈良の金剛山麓の古家にあった。古家は木村さんから借りた築70年の家で、木村さんが交通の便利な町の新築に引越しされた後20年間ほど空き家になり、それでも月に一回、その村の句会に来られたときに泊まっておられたが、ぼくらがそこを借りるころには、雨漏りもするし壁のすき間から風がスースー入ってくるし、冬は外気温と室内気温が同じような状態になっていた。借りることになってからはかなり修理を必要とした。
 「あるものは何でも使ってください。居抜きというんですわ」
と木村さんの言われたとおり、古家には家財道具がいろいろ残されていた。木村さんは、元大学教授だったが、退職した後、俳句一筋の人生を歩んでおられた。「十七音詩」は残された書物の中にあった。別の同人誌「運河」や「天狼」もあった。
 その古家に5年間住んで、現在のところに引越ししてきたわけだが、俳句の同人誌も一緒にやってきた。
 同人誌「十七音詩」を見ていると、学生時代の友人、イーさんの顔が浮かんできた。イーさんは確か「十七音詩の会」に入っていた。イーさんと、もう一人の同級生エダヤン、彼は「天狼」の俳句会に入っていた、この二人は学内に俳句会をつくって勧誘にきたからぼくもその俳句会のメンバーになった。
 大学を卒業してからそれぞれ教職につき、俳句の付き合いも終わる。3人は、教員という仕事は共通していたが、その世界での生き方や考え方は全く異なるものとなり、それが原因となって、いつしかつながりは断絶した。
 イーさんが自殺した、という情報を聞いたのは、エダヤンと結婚した同じ科のヒロコさんからだった。みんなはすでに50代の半ばになり、エダヤンとヒロコさんは夫婦ともに校長になっていて、エダヤンの生き方は実現しているなあと思った。ぼくは彼らとは完全に別の道を歩いていた。
 「イーさんは自殺したのよ。原因はわからないんだけど、教職をやめてから二年間、駅の掃除夫の仕事をして、それから自殺したらしいの」
何があったんだ。学生時代のイーさんは、やさしい男だった。一時結核をわずらい、治癒してから進学してきたから年齢は一つか二つ上のはず。イーさんのつくる感覚的、情感的俳句は、ぼくの心を打った。
     まりつきの祈りのごとくなりゆきし
 こういう句をつくった。
 ヒロコさんから悲しい報を聞いてショックをうけたものの、その後ぼくはイーさんのことをもっとよく知りたいと思いながら、結局時の流れにのってここまできてしまった。奥さんがおられるなら、今からでもイーさんのことを聞きたい。聞いてイーさんを偲び、祈りたい、今もそう思う。
 書棚から見つかった「十七音詩」、ひょっとしたらこの中に、イーさんの俳句が見つかるかもしれない、彼の俳句は同人のなかにあるかもしれん。そう思ったから一冊一冊のページをくっていった。けれど、イーさんの名前は見つからなかった。俳号が変わっていたとしたら見つけることは不可能だ。
 イーさんは発見できなかった。
 それとは無関係だが、ひとつの記事がぼくをひきつけた。
 「無名兵士の手帖 ――沖縄戦の記録」、小寺勇の記録だった。金子明彦が初めに紹介文を書いている。
 「同人・小寺勇に一巻の未刊句集がある。彼はそれを筐底(きょうてい)に秘めて人にあまり見せたがらない。戦後、復員してから占領下のため発表の機会がなく、師・日野草城閲の赤い印がついているだけで、彼はこれを発表する気はなかった。今更、いまになって――という彼を説得し、独断でこれを抜粋してここに掲載することにした。」
内容はすざましいものだった。(つづく)