危機の歴史

 

 第二次世界大戦後、米国とソ連の対立は激化し、ソ連核兵器を開発、世界はきわめて危険な状態になった。

 1949年、パリで「世界平和評議会」が立ちあげられ、1950年、ストックホルムで「世界平和委員会」が開かれた。そして次のようなアピールが採択された。

  • 原子力兵器を絶対禁止する。
  • そのために厳重な国際管理を行う。
  • 原子力兵器を使用する国の政府は戦争犯罪者とする。

 「ストックホルム・アピール」は世界中で5億人の署名を集め、世界各地で「平和会議」が開かれた。

1954年、南太平洋ビキニ環礁で、アメリカは核実験を行い、その近くで操業していた日本の漁船第五福竜丸が被曝した。乗組員の久保山愛吉さんはそれによって死亡、日本では大きな問題となった。

 1955年、米ソの核戦争という危機的な情況で立ち上がったのが、バートランドラッセルとアインシュタインだった。この二人の学者に世界の学者7人、日本の湯川秀樹も加わり、核戦争を防ぐよう訴え、その動きを受けて、国際科学者会議がカナダのバクウォッシュで開かれ、「科学者の社会的責任」として、核兵器の管理、原子力の利用と危険をテーマとする討議が行われ、「核実験を禁止せよ」という声明を発表した。

アメリカによるビキニ環礁の核実験と被曝をきっかけに原水爆禁止運動が広がり、原水爆禁止日本協議会(日本原水協)が発足する。運動は世界に広がり、広島市で8月6日、第1回原水爆禁止世界大会が開かれた。参加者は11カ国の五千人。大会では原水爆禁止を求める署名が日本で3千238万、世界で6億7千万集まったと報告された。

 一方、国際科学者会議もカナダのバクウォッシュで開かれ、科学者の社会的責任が取り上げられた。そこでのテーマは、「核兵器の管理」、「原子力の利用と危険」だった。声明が発表された。「核実験を禁止せよ」。この会議は、毎年場所を替えて開かれ、軍縮、平和、学者の道義的責任について討議を重ねた。この会の声明は「バクウォッシュ声明」と呼ばれた。

 第三回の会議はオーストリアで開かれ、「原子力時代の危険と科学者の役割」がテーマになった。そこでは核戦争だけでなく、すべての戦争の絶滅を訴える「ウィーン声明」が発表された。バクウォッシュ会議はその後も開催され、1976年、京都で開かれた。1977年、ミュンヘンで20周年を迎えた。創始者で会長の、イギリスの物理学者ロートブラットは、1995年、核廃絶をめざすバクウォッシュ会議とともに、ノーベル平和賞を受賞した。