隠岐の島・海士町に見る民主主義

 世界の民主主義の系譜をたどりながら、宇野重規(政治哲学)は、未来社会を展望し、現代の新しい試みを紹介している。(「民主主義のつくり方」宇野重規 筑摩選書)
 島根県沖に隠岐の島という島がある。隠岐諸島には人の住んでいる島が四つあり、その一つである。隠岐の島には海士町という自治体がある。
 海士町もごたぶんにもれず少子高齢化し、過疎が進行していた。町は公共事業をあてにし、借金を続けた。その地方債がふくらみ、2003年には毎年の返済額が町予算の3分の1を占めるようになった。財政再建団体への転落が目前だった。折りしも平成の大合併の号令が聞こえてくる。他の島と合併すれば特例債も得られる。財政的に破綻しないで助かる可能性が生まれる。しかし海士町の島民は合併を選ばす、単独の生き残りを選んだ。宇野重規はこう表現している。
 <これが困難な道であることは誰の眼にも明らかであった。にもかかわらず、苦渋の選択をすることで、島民は自らの退路を断ったのである。>
 退路を断って考える、それは決死の覚悟である。これ以上借金はしない、他者に依存しない、行政に丸投げしない、自ら考え動く、ということである。
 町長はこう言ったという。「小さい町だから小回りも利く、臨機応変動くことができる、住民一人ひとりの顔が見える、全員の意見を聞いて回ることができる」と。
 「ないものは、ない」。が、自らを観たとき、「あるものは、ある」。小さい町だから生き残る道はある。小さい町だから全住民の徹底した議論ができる。そこから行動がかならず生まれる。
宇野重規は、それを、
「住民同士の徹底した議論に基づく自己決定という意味では、理想的な民主主義であった」
と評価する。
 町長は自分の給与を削減した。町職員の幹部、つづいて一般職員がそれに続いた。行政が身を削り、町民と危機意識を共有した。町の再生への取り組みはそこから始まった。
 島の産物を商品化して全国に出荷する。海産物、隠岐牛などなど。
 町の外からの眼と知恵を導入し、住民と熟議して、自己決定によって計画を進める。
 そして、町職員全員と住民全員が、「ひと」「くらし」「環境」「産業」の4分野にわかれ、一年かけて話し合い、海士町の総合振興計画「島の幸福論」と、「海士町をつくる24の提案」を作成した。
 つづいて具体的なプロジェクトを立ち上げ始動させていった。「海士町をつくる24の提案」は、「1人でできること」「10人でできること」「100人でできること」「1000人でできること」に分類された。
 「1人でできることは明日からでもすぐに始めればいい。10人でできることはチームですぐに始めればいい。100人でできることや1000人でできることは、行政と協働して進める必要がある。何でも行政に頼るのではなく、自分たちにできることは自分たちでやり、どうしてもできないところだけを行政と協働する。」
 アイデア・方策は、外部からの知恵だった。兵庫県家島諸島で、「コミュニティデザイン」を掲げて「いえじまプロジェクト」を展開してきた山崎亮氏の参与があった。
 海士町の人口は2300人、そのうち300人はIターンである。Iターン、すなわち外部から島に来た人たちである。彼らは20代から40代、若い力が島に入ってきている。固定的な人間集団、人間関係にしないで、新たなネットワークを生みだしているのである。全国とつながって、経済的に自立し、文化を創造する海士町が育っているのである。
 宇野重規は、希望という言葉で語っている。
 「現代日本社会においても、民主主義の『種子』は少しずつ根を下ろしつつある。もちろん、その『種子』が今後も順調に発育をとげ、さらに相互につながって一つの『森』を形成するようになるかは、予断が許さない。とはいえ、プラグマティストたちが教えてくれたように、民主主義とは本来実験であるとすれば、実験の結果があらかじめ予測できないのは当然であるともいえるだろう。」