賢治は家に肥料相談所を設け、訪ねてくる農民に肥料設計を書いてやった。それぞれの田には異なった条件がある。肥料設計は13項目からあった。それだけでも大変な作業だった。
賢治の発病は昭和3年の夏。12月に急性肺炎にかかった。
昭和8年9月19日、岩手県花巻町の神社の祭礼最終日。
賢治は神輿(みこし)を拝むために、門前に出てしばし夜露にうたれた。
20日朝、ひとりの農民の訪問を受け、玄関でしばらく稲作の相談に乗った。
その直後、急に呼吸が苦しくなり、主治医の往診を受けた。
主治医が帰った後、賢治は二首の歌を紙にしたためた。
病(いたつき)の ゆゑにも朽ちん いのちなり
みのりに棄てば うれしからまし
方十里 稗貫(ひえぬき)のみかも 稲熟れて
み祭三日 空はれわたる
賢治は歌を書くと、戸棚にうず高く 積んだ原稿を見やって、
「この原稿は、わたくしの迷いのあとですから、適当に処分してください。」
と父に頼んだ。
その夜、また農民から肥料の相談を受ける。一時間ばかり話した。
21日、母から水をもらい、脱脂綿にオキシフルを含ませて、自分で体を拭いた。
そうして賢治は永眠した。