鶯鳴き、水仙咲く




今朝、雪の常念岳が蒼天にくっきりと輝き、木立から鶯の初音が聞こえた。
庭の水仙が清涼の気を発して凛凛と花開いている。
東北地方、津波にもたらされた砂や泥、瓦礫の荒野に一輪の水仙が花開いているのを見つけたご婦人がいた。
「母が植えた水仙が、生きて花を開いてくれた。」
喜びの声を上げる娘さんの姿だった。
そこは我が家のなにもかもが消えてしまったところ、そこに水仙は花咲き、生きよとささやいてくれている。
一輪の小さな花の、深い喜び。


福島、阿武隈山地に、かつて荒野一町六反歩を開墾した詩人・三野混沌と吉野せいの一家がいた。
二人の人生は、貧困と苦闘の道であった。


妻・せいは、混沌の死後、夫の一編の詩を見つけ、『洟をたらした神』と名づけた彼女の作品集の最後に書いた。
その詩の前文に、せいは書いている。
「つい先ごろ、偶然眼にした、老いさらばえたころの混沌の一つの詩を、全身蒼白の思いで私は読んだ。」


        三野混沌の詩。


    ぜつぼうのうたをそらにあげた
    そんなにあさっぱらからなげくな
    なげけばむすこはほうろく    (ほうろく=失うの意)
    あるいはばあさんじしんがどうなるか
    むすめはどこへ
    さてボクはここでおわるとしても
    めいめいのみちをたびだってしもう


    くどくなばあさん  なげくな
    それさえなければ  なにをくい  なまみそでいきてもいい
    いっせんでも  むすこのしゅうにゅうになるなら
    クサをとるというボクを  ボクをみていよ
    じゆうはそれぞれにあるとしても
    そうすることはどういうものか
    ふこうはみんなのあたまのうえにおりてくる
    

    なげくな  たかぶるな  ふそくがたりするな
    じぶんをうらぎるのではないにしても
    それをうったえるな
    

    ばあさんよ  どこへゆく
    そこはみんなでばらばらになるのみだ
    つつしんでくれ
    はたらいているあいだ  いかるな  たかぶるな
    いまによいときがくる
    そのときにいきろ



詩の後に、せいはこう書いた。
「ゆらめきだした心の中の小さい灯だけは消さないように、
これからもゆっくりと注意しながら、歩きつづけた昨日までの道を別に前方なんぞ気にせずに、おかしな姿でもいい。
よろけた足どりでもかまわない。
まるで自由な野分の風のように、胸だけは悠々としておびえずに歩けるところまで歩いていきたい。」