政権が交代して、予算の見直しが行なわれ、教育予算の執行猶予による学校現場の様子をNHKが報道していた。
ある小学校では、理科実験室の人体模型が破損していて、胸の辺りに補修テープが貼られ、腸の一部が少し欠けている。
電気の実験用送風機は古くなっている。
「もうこれらは使えません。」
早く予算を出して、整えてほしいと校長が言う。
映像を見ていて思った。
それぐらいだったら、さらに修理して使えばいいではないか。
備品としてそろえなければならないという規則になると、形を整えなければいけないと考える。
金が下りるとなると、使わなければ損だとなる。
発展途上国の現状が頭に浮かんだ。
足りなければ、壊れていれば、子どもたちといっしょに修理したり、アイデアを凝らして、創造していく、
古くても、修理しながらでも、使っていこうとする、
そういう指導こそが教育ではないか。
実際に、教材教具の活用の実態をぼくは見てきた。
理科実験室、技術科実習室など、たくさんの備品がある。
それらは活用されているかというと、教師による差が大きい。
熱心に実験用具を使いこなしていた人は少なかった。
知識を教え込むことを重視して、講義式の授業をする人が多かった。
実験用具を考案し自作して、実験授業を創造していく人がどれだけいただろう。
使われずに準備室に置かれたまま、ほこりをかぶっている教具が多かった。
ふっと思い出した。
廃校を探し歩いたときのこと、
すでに廃校になっていたある校舎では、備品が放置され残されていた。
子どもたちの作った卒業制作の焼き物が校庭に埋められていた。
ふっと思い出した。
木製の机、椅子を、パイプ椅子、机に換えたときのこと。
子どもたちにとってはとても重かった木製の机と椅子は、軽い合成樹脂の天板とパイプの脚の机椅子になった。
木製机には長い年月の間、子どもたちの彫ったいたずらが残されていた。
処分されたそれらはたぶん燃やされていっただろう。
公立学校の校舎の窓を全部アルミサッシに換えたときがあった。
木製のサッシはガラスを入れたまま、バリバリと業者のトラックに積み込まれていった。
先輩から後輩へ、何代にもわたり、多くの子どもたちが使いこむところに、生まれてくるものがある。
調整し、補修して、使えるように手を入れ、工夫していくところから、生まれてくるものがある。
子どもたちと共につくり、ものに命を吹き込むことこそが大切だと思う。
予算がないからだめだ、という考えからは何も生まれない。
予算が下りて必要なものはそろえたけれど、それを活用していないという現実を見直すことではないかと思う。