井伏鱒二「黒い雨」から  1

 

    プーチンにはかなり深刻なものを感じる。核兵器の使用へのプーチンの言及がこれまであったが、彼は暴挙に走る危険性をもっているように感じる。

    井伏鱒二著の「黒い雨」を若い人たちに読んでほしいと思う。「黒い雨」は、「ヒロシマ原爆」の悲惨を、詳細なデータを元に伝える貴重な記録文学である。

 1970年代、「黒い雨」の一部が、三省堂の中学国語教科書に教材として入れられたことがあった。中学生はそれをどのように読んだだろう。教員はそれをどのように指導しただろう。

 その「黒い雨」の一部分は今も私の記憶に残っている。

 

 おかみさん風の女の話があった。

 「おかみさん風の女は、どこに避難するかあてもないのだと言った。亭主は仕事師だったが、戦死した。亭主の弟も戦死した。実の弟は戦争に行っているし、頼りにするものは一人もいない。たった一人の尋常小学校二年の男の子が、今朝の爆撃で脚立(きゃたつ)から落ちて死んでしまった、と言う。

 この女は元料理屋の土塀の外にある長屋に住んでいた。塀越しにザクロの木の枝がこちら側に伸びており、今年は五つも六つもザクロの実が枝についていた。たまたま疎開先から戻って来ていた男の子が、今朝がた疎開地に帰りがけに、オヤジの形見の脚立をザクロの枝の下にすえつけた。何をするんだろうと見ていると、男の子は脚立に登っていき、ザクロの実の一つ一つに、口を近づけて、ひそひそ声で、『今度、わしが戻ってくるまで、落ちるな』と、言い聞かせていた。

 その時、火の玉が耀いて、大きな音がとどろいた。同時に爆風が起こった。塀が倒れ、脚立がひっくり返り、子どもは塀の瓦か土かに打たれて即死した。

 去年、ザクロは塀のこちら側にのぞいている枝に、三つか四つか実をつけた。それが青いうちにみんな落ちたので、子どもは今年こそ無事に育つように声援を送ったのだ。子どもとしては、ザクロに入れ知恵をつけたつもりだろう。思ってさえも、なおさらそれで不憫が増してくる。

 おかみさん風の女は、そう言ってさめざめと泣きだした。」