(写真:バラクラ・イングリッシュガーデン)
山小屋コロッボクルの中はこじんまりして、ちょうどお昼時が終わってコーヒータイムになっていたから、三人のスタッフがまめまめしく立ち働いていた。コーヒーを淹れていた男性がこちらを見た。ひょっとしたら手塚さんの息子さんかもしれない、と思いながら聴いてみた。
「手塚さんはご健在ですか。」
「あー、七年前に亡くなりました。」
「亡くなられた‥‥、ああー」
やっぱり亡くなっておられたか。
「81歳でした。」
「ああ残念。」
「すみません。」
僕の表情を見て、「すみません」が、つい口をついて出たのだろう。
「手塚さんから何度かお手紙ももらい、私は手塚さんの本の愛読者で、ほとんどの本を読んでいます。」
「ありがとうございます。」
そう言いながらも、主は小屋の外のテラスで待っている客にサイホンで沸かすコーヒーを淹れつづけていた。
ぼくらもコーヒーを注文して、小屋の裏にあるテラスのテーブルに席をとった。前面になつかしい風景が広がっていた。車山の頂上が眼前にこんもりと盛り上がり、北側は山彦谷、その向こうに蝶々深山が、草原のうねりの上にあった。ニッコウキスゲはまだ咲いていない。レンゲツツジの赤い花がところどころにある。30年ほど前、手塚さんがくれた年賀状に、この山彦谷を、春になったらキツネが麓から上がってくる様子が描かれていたのを思い出す。山小屋の北側はモミの木の防風林で、ここでもエゾハルゼミが絶え間なく鳴いていた。手塚さんが防風林をつくることを決意したのは1959年の伊勢湾台風で小屋が倒壊してからだった。
「私は石を積み始めた。爪を割り、皮膚を裂き、筋肉を著しく披露させるのに充分な作業が続き、石積みと並行して山小屋のまわりにカラマツを若干加えて、主にモミの樹を密植する仕事を始めた。」
「いかに丹精を込めてモミを植えても、私は私の生涯で森を見ることはないだろう。それでもいいではないか。私の夢はけっして幻の森ではない。私が育て続けるモミの樹たちは、いつかはやがて必ず黒々とした森になるに違いない。
深々とした緑の森の木々の葉裏に、木漏れ日が光り、風はこずえを渡り、夜は淡い灯りが窓辺を照らして更けるであろう。人々は樹の根元に寄りかかり、あるいはもたれて眠るであろう。そしてときどき思い出して語り合う人がいれば私は幸福だ。ここに昔々、男がひとり森を創った話を。」
手塚さんは、ジャン・ジオノの「木を植えた人」に感銘し、何度も読んだと書いていた。
「『木を植えた人』は私の矜持を支え、いつも常に粘り強く生きようとする気概を与え続けてくれる、不思議な力の湧くのを覚える。」
手塚宗求さんは、はじめにドイツ・トウヒを100本ほど植えた。だが標高1820メートルの厳しい気象条件のもとでは、生存したのは2、3本だった。それでカラマツとモミに切り替えた。植えた本数は1000か1500か。今生き残った木々が小屋を守ってくれている。
コーヒーがはいりました、という声が聞こえ、小屋からかわいいサイホンで淹れたコーヒーとクッキーを、洋子が運んできた。客の中の一パーティが、トレッキングに出かけた。(つづく)