11月



 昨日、やっと黒豆を全部収穫してきた。すでに枯れている根本の茎を鎌で切って、乾燥した豆のカラカラと鳴るのを束ねて車に積んで運んだ。今年もいつものように、ブルーシートを広げ、その上に台の板を置き、豆の木を載せて竹刀で叩く。今年はどれだけ採れるだろう。今朝も煎った黒豆の黒酢漬けを食事のときに食べた。今食べているのが終われば、新豆になる。ぴったし一年で去年の黒豆が食べ終わりになる。
 今朝、里山まで雪が来た。すでに白馬連峰は真っ白だ。
 パソコンの調子がおかしくなって一週間になる。K君に救いを求めたら来てくれて、いろいろやってくれたが、完全に治らない。そのうち突然、
「分かったあ。これはホコリが原因だあ。キ―のところにホコリがついて、中まで入って接触が変になっているんだあ。」
と、確信めいた叫び声をあげ、掃除機を使ってキーボードの上を丹念に刷毛を動かしてホコリを吸い上げたら、お見事、パソコンは正常に動き出した。さすがK君。おかげで今朝、このブログを書いている。
 
 吉江喬松という仏文学者の評論家がいた。明治13年塩尻出まれで、第一次世界大戦のときパリ大学に留学して、帰国後早稲田大学に仏文学部を創設した。彼は、日露戦争が勃発した年、「自然の寂光」という作品を書いた。そこに、東京の晩秋の情景を書いている。
 「輝く光は日本に住むものの悦びである。いかに砂塵と、不秩序と、喧騒と、焦慮と、疲労と困憊とのうずまく日本の首都の上にも、この秋の寂光は一道の清涼の気を漂わせて、人々の胸の中にまで一時の静寂を植えつけずにはおかない。この寂光のくまなく行きめぐる秋の都、木の葉の吹きまくらるる中にも、一つの寂然たる不動の姿を見せて、いかなる喧騒をも取りしずめ得る真の生え抜きの大都会となるのはいつのことであろう。」
 日本の11月は、澄み渡る寂光の季節であると。
 ロンドンならば、もはや濃い霧が全市を包んでいる。パリでは、打ち続く曇天が破れて、幻影のごとく森の頂を黄色に染めてうす青い空がのぞくことがあり、そのとき教会の鐘が街中に響き渡るのだと。