生徒のストライキ事件


 賢治は25歳から30歳まで、農学校の教員を勤めた。稗貫農学校と花巻農学校の教員時代の賢治について、教え子が語った話を作家の畑山博が書いている。

 当時生徒だった根子吉盛が、生徒のストライキ事件を語ったことがあった。

 「いつだったか、校長が生徒を殴った事件があったのですよ。その生徒は、何かいきがってもいたのでしょう。廊下をがんがん音たてて歩いていたのですね。それで校長が飛び出してきて、廊下にいたわれわれを詰問したのです。『根子、おまえだな』って言われました。それであわてて否定しましたよ。Sという奴だったんです。で、Sが殴られました。
 ところが、その殴り方が感情的で、一方的だということで、生徒たちが怒り出したんです。全校ストライキだってことになってしまったんです。で、それを、寄宿舎の生徒の一人が宮沢先生に知らせに走ったんです。
 先生は、生徒たちのところへきて、事情を聞いて、必ず校長先生に謝らせるから、そんなことはすぐにやめろと言いました。
 そうしておいて、校長のところへ行ったのですね。『きのうあなたは、Sを殴ったそうですが、それを快しとしていらっしゃいますか?』『いや、思っていないが、自分の短気さもあって、叩いてしまった』『では、Sに謝っていただけますか。さもないとストライキなどという嫌なことになってしまうかもしれません』、そんなやりとりがあったと後で先生から聞かされました。スト騒ぎは、それで消えました」
 根子のこの話に続いて、畑山が次のように述べている。
 「その後、すでに賢治が学校を辞めたあと、新しい校長による、古い授業のしきたり復活が気に入らなくて、生徒たちがストライキを起こそうとしたことがあった。
そのときは、根子吉盛が賢治に自宅に呼ばれた。
 「やめさせてけろ」
 賢治は言い、賢治先生の言葉だということでやっと収まったのだと根子は言う。
 啄木に比べて、賢治はこうした場面においては日和見的だったという意見を言う人たちがいる。
 が、私はそれは日和見なのではなくて、賢治は低次元ないさかいに対しては身を乗り出さない腰の重さがあったのだというふうに解釈している。それと、言い知れない諦念とを私は感じてしまう。「雨ニモ負ケズ 風ニモ負ケズ」というあの有名な手帳の中の詩句も、私はほんとうは、彼が生き方の理想の姿を未来に置いて書いているのではなくて、遠き過去へと安置してきた哀しみの言葉なのだと考えている。」

 賢治が農学校の教師だったのは大正10年から15年の間であった。そのころに、このような生徒のストライキ事件が起こっている。旧制中学の生徒らはこのようなエネルギーを持っていたのである。
 それを賢治はおさえたけれども、賢治自身について見ると、彼が旧制の盛岡中学校3年生だったとき、寮の舎監を生徒たちで追い出す排斥運動を起こしている。4年生が発起人のようであるが、賢治も加わり、首謀者だとも言われた。その事件によって賢治は寄宿舎を追放され、その後ツルゲーネフトルストイなどロシア文学を耽読し、仏教を勉強している。
 賢治よりも前に、同じ盛岡中学で学んだ石川啄木は、明治34年(1901)、16歳のとき、このときの啄木も3年生だったが、生徒らによる校内刷新のストライキを起こしている。この闘いでは県知事が裁定に出て、生徒側の要求が貫徹し、教員の大異動が行なわれた。
 ストライキという手段を使いながらも、改革に向かって動く若いエネルギーを、明治、大正の生徒たちは持っていた。現代の生徒よりもはるかに抑圧体制が強い時代であったにもかかわらず、彼らは理と熱にもとづいて仲間とともに行動力を発揮したのだった。