同窓会


 
 八月末に電話がかかってきた。
「タケシです。覚えておられんでしょう。別のクラスでしたから。10月初め、同窓会を計画しています。出席してくださいませんか。」
 1984年度の卒業生だった。直接受け持ったことがなかったから、記憶のかけらもなかった。その学年は卒業してから一度も同窓会を開いていない。
「来てほしいという卒業生がたくさんいて、来ていただければ、参加者が増えます。」
「大阪までねえ。膝をこわして、ストックをついて歩いているからなあ。ちょっと難しいですねえ。」
 参加するとは言えなかった。九月初め、また電話が鳴った。
「アキヒデです。同窓会、来てください。みんな会いたがっているんです。ホテルも用意しますし、長野まで車で迎えに行きますよ。」
 彼は一年生のときにぼくのクラスだった。ワンパクの集まり、このクラスのことはよく覚えている。今アキヒデは長距離トラックの運転手をやっていて、中央道を走っていると言う。


 アキヒデのいたぼくのクラスは、校舎から少し離れた体育館の下が教室だった。底抜けのいたずらや遊びを毎日毎日繰り広げる連中がいた。授業を始めると、授業とは関係のない質問を飛ばしてくる子がいる。その子は昼休みに、運動場の朝礼台の上に立って、ひとりで演説を始める。
 授業開始のチャイムがなり、次の授業が担任のぼくのとき、それ行け!とばかりに、野性児五人にオテンバも加わり、教室からぞろぞろ出てきて職員室の方へ走ってくる。
 「チャイムが鳴ったら教室に入って席に着いとかんかあ。」
と叫んでぼくは教室へ向かって走りだす。彼らはそれを期待していて、きびすを返し、歓声を上げながら教室に向かって逃げ帰る。ぼくは追っ駆けて教室に入ると彼らはチンと席に座って笑っている。


 小春日和の土曜日の午後のことだった。運動場の真ん中に白いものが動いていた。よく見るとニワトリだ。半分腰が抜けていて、羽根は糞で汚れている。おまえ、どこから来たんだ?
 隣の小学校から逃げてきたのかと電話したが、逃げてはいないという。ぼくはしかたなく弱ったニワトリを段ボール箱に入れて箱を抱え、電車に乗って、他の乗客に悟られないように気を使って家まで持って帰った。ニワトリはとりあえず庭に放しておくことにした。庭には種を播いたほうれん草が十センチばかりに育っていた。腰のぬけたニワトリは庭にうずくまったままだった。水を入れた容器を置き、ご飯の残りを置いて、様子を見た。二、三日して気がつくと、庭のほうれん草の葉っぱが少なくなっている。食べているらしい。一週間ほどして、ニワトリは立ち上がって庭を歩くようになった。白い羽根につやが戻り、さっそうと元気になっている。ホウレンソウの葉っぱは食べられて無くなり、しかしトリは元気になった。その威力はすごいものだ。
 ある朝早く、突然けたたましい声が外で響いた。ニワトリが時を告げている。ひやーっ、野性がもどったぞ。
 ニワトリはしきりに鳴いている。こりゃあ、近所迷惑になりそうだ。
 ぼくはダンボール箱にニワトリを入れてまたまた学校へ持って帰ることにした。朝の通勤列車は満員。そんなところへダンボールを抱えて入り込む。鳴かれたら困るなあ。鳴くなよ、鳴くなよ。幸いニワトリも神妙にしていた。
 朝のホームルームにニワトリを持って行った。教室は大騒ぎになった。
 「このトリ、迷子のトリなんや。どうしたらいいと思う?」
 「トリ小屋作って飼おうで。」
 アベチンやアキヒデが乗ってきた。
 「しかしこれは他のクラスにも他の先生にも秘密やで。内証や。」
 秘密計画だ。知られたらいかん。誰の眼もとどかないところはどこかにないか。
 「体育館の裏の隅がいい。誰も来ん。」
 「そこにトリ小屋をつくって、みんなで飼おう。」
 これで決定した。ちょうど新しい校舎の増築が校内の一部で始まっていて、工事の車が体育館の横の裏門から出入りしている。裏門から人が侵入しないように気を付けねばならない。秘密計画は進行した。ワンパクたちは、レンガや木切れを拾ってきて、トリ小屋を作った。屋根にはさびたトタンの切れ端が乗った。
 昼休み、生徒は弁当の一部を持っていってトリにやる。家から食べ残しを持ってくるものがいる。トリは猛烈な食欲だ。何でも食べてしまう。秘密は厳重に守られた。他のクラスの子にも知られず、半月ほど過ぎた。
 「せんせー、消えた―、おれへん。」
 アベチンとアキヒデが飛んできた。こつぜんとトリが消えていた。小屋の一部が壊れている。連中は探偵の眼になり、捜索に取り掛かる。ブロック塀の壊れたところから誰かが入って盗んでいったかもしれん、工事をしている人が持って行って、焼き鳥にして食ったんとちゃうか。逃げたのか、盗られたのか、襲われたのか。壊れかけたトリ小屋を残したまま不思議ななぞの白いニワトリは忽然と消えた。


 どえらいワンパククラスだった。その一年を思い出したとたん気持ちが変わった。同窓会参加は難しいとタケシには言ったが、アキヒデがなんとしてでもと言うから、行くことにした。アキヒデはホテルもとったという。この際、他の卒業生や故郷の友にも会ってこよう。

 教育の原点

 ぼくが愛読するブログに「困らないけど、いいですか」というのがある。筆者は新間早海さん。
今年の一月か二月、そこに、「子どもはまったく完成されていて、かつ未完のまま」という記事があった。
 記事は担任教師と子どもたちの距離感がどんどん縮まっていくと現れてくる子どもの自由が生み出す現象について考えている。

   ▽    ▽    ▽

 子どもたちの距離感が近くなっています。
 わたしが気にするであろうことを、サッと感知して
「あ、先生、〇〇くんは校庭行ったー」
「先生、〇〇しといたよ」
「先生、数、かぞえたよ」
「先生、消しといた」
「先生、チョーク足りなくなってきたよ」
 自分勝手に判断して、どんどんと自分たちの生活を成り立たせていきます。すでにこの世を満喫しているのです。
「先生、ソリ作ってきたぞ」
 段ボールに家庭用のごみ袋をかぶせたソリ。
「おお、すげえ。みんなですべろう」
 みんな校庭の坂に走っていきました。一人ひとりが、勝手なことをやっている、なんともいえない幸福。
 ああでなければ、こうでなければ、と子どもにいろいろ思う時は、彼らには何もかもが不足していて、なんでもっとこうならないのか、と責めたり叱ったり、鍛えて良くしなければという気持ちが湧いてくる。
 ところが、朝の始業前、鼻歌をうたいながら教室に入ってくる彼らを見ていると、そのしぐさは一つ一つ、すべて実にユニークさ、面白さで満ちている。
 彼らは生きていて、はじけるその命の証を見ていると、けっして人としてなんら不足するものは無い。面白くて優しく、友だちが大好きで大切に思う子ばかりで、
目に見えるもの、そのへんにあるもの、世のすべての物を楽しがり、
新しいことを覚えようとし、できるようになろう、と伸びていこうとする。
どの人格もすばらしく、人として尊敬できる。
 あなたが好きで、あなたとの関係に満足し、満ち足りて、まわりを幸せにする。それがどうして、じつに不完全に見えることがあるのか、不思議になる。
 彼らは未完である。しかしまったく、完成されている。

      ▽    ▽    ▽

 読んでいて、そのクラスの楽しい様子が想像できる。
 距離はどうして縮まるか、それをぼくは考える。
 距離は縮まらないものだと思っている人もいる。距離は縮まらないのが当たり前で、だから秩序を保って授業が成り立つと思っている人もいる。距離が縮まれば、なめられて友だち感覚になってしまう、と思う人もいる。
 距離を縮めたいと思うが、どうしていいか分からない、という人もいる。自分の性格上距離は縮まらないとあきらめている人もいる。
 段ボールに家庭用のごみ袋をかぶせたソリを持ってきたのを見た教師が、
「そんなのを学校にもってきてはいけません」
と言ったとたんに、すばらしい宝物はごみになってしまう。
 教師の考え方、意識、感情、こうあらねばならない、こうせねばならない、としている枠に縛られていたら、教師と子どもの距離は近づかない。そういう教師では「道徳」の授業はまず成り立たないだろう。
 このブログの先生は、
「自分勝手に判断して、どんどんと自分たちの生活を成り立たせていきます。すでにこの世を満喫している」
と満足して、顔じゅうで笑っている。
「一人ひとりが、勝手なことをやっている、なんともいえない幸福」
 子どもたちが幸福になる。そして教師が幸福になる。いたずらや遊びや冒険や創作を楽しんでいる子どもたちは、子どもとして完成されている。
 ここに教育の原点がある。

 魯迅に「非攻」という小説がある

 中国の戦国時代に、「墨子」(紀元前470年ごろ〜紀元前390年ごろ)という思想家がいた。今から2500年も昔の話。
 魯国の墨子は、一視同仁や、非戦・反戦をとなえた。一視同仁は、人を差別せず、すべての人に平等に仁愛をもって接すること。非攻は、非戦・反戦
 魯迅はこの墨子を主人公にして「非攻」という小説を書いた。短い小説だが、魯迅の思いがよく現れている。
 概略こういう話。
 墨子と同じ魯国の公輸般という人物が楚王をそそのかし、小国の宋を攻めさせようとしていた。楚と宋が戦争をすれば宋に勝ち目はない。墨子は楚王に戦争をやめさせようと、蒸したトウモロコシのマントウを食糧に持って、てくてく一人で出かけていった。ワラジの紐が切れ、底に穴が開いた。足にあかぎれが切れ、豆もできた。けれど、墨子は歩みを止めず、どんどん歩いて宋の都城に入った。途中に店があったのでのぞくと、ろくなものがなかった。道には黄塵が積もり、肥沃な田はひとつもなかった。楚国が攻めてくるという噂は、人びとはたぶん耳にしているだろうが、みんな攻められるのに慣れてしまって、当然のように思っている感じだった。着るものも食うものもないから、避難しようと思う者もいない。南門の城楼の見える所にくると、一人の男が演説していた。
 「われわれはやつらに、宋国の民気を見せてやるのだ。われわれはみんな死ぬのだ。」
 その男は墨子のところの学生だった。
 墨子は農家の軒下で夜を明かし、どんどん歩いて宋を通り抜け、楚国に入った。楚国は繁栄していた。家並みは整い、商店には上等の品が並んでいた。広場には露店が並び、人でにぎわっていた。墨子は、戦を扇動している公輸般をさがした。人に聞いてその家に来ると、「魯国公輸般寓」の表札がかかっていた。門番に公輸般に会いに来たと言うと門番は一度追い払ったが、どうしても会いたいと粘るから、「色の黒い乞食のような男がきている」と公輸般に告げた。すると公輸般は、その男は墨子だと察知し、墨子を招き入れた。面会がかなった墨子は公輸般に問うた。
 「なぜ宋国を攻めるのですか。楚国に余っているのは土地です。足りないものは人民です。足りないものを殺して、余っているものを奪うのは、智とは言えない。宋国に罪がないのに攻めるのは仁ではない。あなたは、王の過ちを知っていて、これをいさめないのは忠ではありません。いさめてもそうならないのなら、それは本当に強いということではありません。」
 公輸般は言った。
 「言われることはもっともです。でもすでに王に説いてしまいました。」
 墨子が言う。
 「じゃ、私を王に会わせてください。」
 公輸般は承諾して墨子を王のもとに案内した。王は、墨子が北方の賢者であることを知っていたので、すぐに会うことを承諾した。楚王の前に立った墨子は、ゆうゆうと説きだした。
 「ここに一人の人がいます。馬車を持っているのに、隣家のボロ車を盗もうとします。美しい錦繍があるのに隣家の粗末な衣服を盗もうとします。米や肉があるのに、隣家の糠の飯を盗もうとします。これはいかなる人でしょうか。」
 王は答える。
 「それは盗癖のある人に違いない。」
 墨子は言った。
 「楚の地は、五千里四方あります。宋は方五百里しかありません。これは馬車とぼろ車のようなものではありませんか。楚には、雲夢沢(うんぼうたく)に、サイやシカがいっぱいおり、川には魚や貝が比類ないほどとれます。ところが宋は、ウサギ一匹、フナ一匹いないところです。これは米や肉と、糠の飯の違いのようなものではありませんか。楚には松や楠がありますが、宋には大木はありません。これは錦繍と粗末な衣服のようなものではありませんか。宋を攻めるのはこれと同じではないですか。」
 王はうなずいて言った。
 「そのとおりだ。じゃが、公輸般はわしのために攻撃の道具をつくってくれている。攻めないわけにはいかない。」
 そこで墨子は木片を使った戦闘のゲームを公輸般を相手に、王の前で繰り広げて見せた。そのゲームを王はよく理解できなかったが、結果は墨子の勝利になった。それでも公輸般は墨子に勝つ術を知っていると言う。墨子は、その術というのは、自分を殺すことであると指摘する。墨子を殺せば、宋を攻めることができるからだ。そこで墨子が言う。
 「すでに私の学生三百人が、防御の機械をたずさえて、宋城において楚国の軍を待ち受けている。たとえ、私を殺しても、攻め滅ぼすことはできない。」
 それを聞いた楚王は言った。
 「宋を攻めることは思いとどまろう。」

 中国文学者の竹内好魯迅全集を訳出した。彼はこう書いている。
 「(この作品は)戦闘的非戦論を共感をこめて打ち出した作品である。諸子百家中、魯迅墨子を最も尊敬した。満州事変以来、国難が叫ばれ、抵抗についてさまざまな論議がなされていた時代風潮がこのような墨子像をえがかせたのだろう。」
 墨子のような行為のできる人がいたら、墨子のような体当たりでいさめる臣下がいたら、 中国侵略を停止できていた。さすればその後の歴史はどうなっていたことだろう。太平洋戦争も起こらず、核兵器の使用も起こらなかった。

 プリーモ・レーヴィ「これが人間か」


 プリーモ・レーヴィの著作「これが人間か」には、「アウシュビッツは終わらない」のサブタイトルがついている。今も続いているし、これからも続くという予感である。
 プリーモ・レーヴィは、イタリア系ユダヤ人で、1944年、アウシュビッツ強制収容所に入れられ、苛酷な収容所生活を奇跡的に生きながらえてイタリアに帰還した。その体験が実に詳細に書かれている。
 本の序に作者の一片の詩が加えられている。


  暖かな家で
  何ごともなく生きているきみたちよ
  夕方、家に帰れば
  熱い食事と友人の顔が見られるきみたちよ。

    これが人間か、考えてほしい
    泥にまみれて働き
    平安を知らず
    パンのかけらを争い
    他人がうなずくだけで死に追いやられるものが。

    これが女か、考えてほしい
    髪は刈られ、名はなく
    思い出す力も失せ 
    目はうつろ、体の芯は
    冬の蛙のように冷え切っているいるものが。
    ‥‥‥

 この本は1947年に刊行され、その後世界中で広く読まれ続けている。1973年には、中学高校生用の副読本的な学生版が出版された。学生版には、ヨーロッパにあった強制収容所の場所を記した地図も添付された。
 プリーモ・レーヴィは、「若い読者へ」の欄にこんなことを書いている。
 「この本は、学生と教師の間で好評を得た。イタリア全土の何百という学校の生徒が手紙をよこして、この本について手紙を書くか、あるいは本人が来て講演をしてくれるよう招いてくれた。」
 生徒たちは質問した。
 どうしてこんなことがまかりとおったのか。どうしてドイツ国民は阻止できなかったか。ドイツ人はナチスヒトラーの行なっていることを、あの当時知ることができなかったのか、それとも知っていて見逃していたのか。
 プリーモ・レーヴィは答えた。

 「情報を得る可能性はいくつもあったのに、それでも大多数のドイツ人は知らなかった。それは知りたくなかったから、無知のままでいたいと望んだからだ。国家が行使してくるテロリズムは、確かに、抵抗不可能なほど強力な武器だ。だが全体的に見て、ドイツ国民がまったく抵抗を試みなかった、というのは事実だ。ヒトラーのドイツには特殊なたしなみが広まっていた。知っているものは語らず、知らないものは質問をせず、質問されても答えない、というたしなみだ。こうして一般のドイツ市民は無知に安住し、その上に殻をかぶせた。ナチズムへの同意に対する無罪証明に、無知を用いたのだ。目、耳、口を閉じて、目の前で何が起ころうと知ったことじゃない、だから自分は共犯ではない、という幻想を作り上げたのだ。知り、知らせることは、ナチズムから距離をとる一つの方法だった。ドイツ国民は全体的に見て、そうしようとしなかった、この考え抜かれた意図的な怠慢こそ犯罪行為だ、と私は考える。」
 「抑圧を容認してはいけない、抵抗すべきだ、という、今では深く根付いている考え方は、ファシスト統治下のヨーロッパには広まっていなかった。特にイタリアではそうだった。もちろん政治活動をしていた小集団はこうした考えを持っていたが、ファシズムやナチズムはその成員を孤立させ、放逐し、暴行を加え、殺害した。数百、数千にのぼる、ドイツのラーゲルの最初の犠牲者は、ほかでもない、反ナチズム政党の幹部たちであったことを忘れてはならない。彼らの影響力が働かなくなったので、組織をつくって抵抗するという民衆の願望は、かなり後にならないと強まらなかった。」

 これを読むと、日本の現実が浮かび上がってくる。日本の学校で、このような副読本を使いたいという意見を出すと、どんな状況が生まれてくるか想像に難くない。そして実際に中学生、高校生、大学生の認識を問うた場合、生徒たちは日本の近代の歴史を含めて、世界の歴史をどれだけ知っているか、これまた想像に難くない。その「無知」「無関心」が、日本の現在と未来にはねかえる。恐るべきことである。

 学校という器なのか世界なのか



 「学校砂漠」という言葉がある。
 学校が地獄に思える子がいる。
 公立中学校の職を辞してから教育研究をしている尾木直樹は、
「学校を離れて最も驚いたのは、いかに学校の内実が社会に知られていないかということでした。子どもと教師のリアルな息づかいが、ほとんど社会に伝わっていない。閉鎖社会の学校に、いかに外の風を送りこむか。二十年ぶりに中学校に入ったある教授は、『学校は博物館でした』と目を丸くした。学校の文化と価値は何も変わっていないのです。ここにメスを入れない限り、子どもは救われないし、教師も元気が出ません。」
と書いていた。
 女子大学で教えている内田樹は、
 「図書館で本を読み、チャペルでパイプオルガンを聴き、庭園で花を眺め、校舎を散策する。その時もし学生諸君が気づかないうちに、『何か美しいもの』『何か知的に高揚感をもたらすもの』を求めていたとすれば、それはすでに『学び』が起動したことを意味する。そのように無防備なまでに心身の感度を上げることを許す場こそ、学校という空間が学生たちに提供できる最良の贈り物なのである。新学期のオリエンテーションで、新入生に学校生活の基本的な心得を伝えた。それは『できるだけ長い時間をこのキャンパスで過ごすように』ということである。」
と書いた。
 「無防備なまでに心身の感度を上げることを許す場こそ、学校という空間が学生たちに提供できる最良の贈り物なのである。」
と言える学校。
 「できるだけ長い時間をこのキャンパスで過ごすように」
と言える学校。
 そう言える学校を、学校の当事者、教育関係者は目指しているか。

 教育の目的

書物や新聞を読んでいて、ぽっとそこの文章が目にとまり、その一点に入りこむときがある。こちらの思考や感性に働きかけるものがその文章にあり、同時にこちらにもそれに呼応する受け皿があるからだ。

 ある時、「そのとおりだ」と思ったのだろう。その文章をノートに書いておいた。それから何年か過ぎて、ぺらぺらノートをくっていて、そのメモにぶつかった。内山節の文章の一部だ。本の名前は書いてない。読み返して、なるほど、これは自分の考えでもあると思う。
 こんなメモだった。


 「詰め込み」回帰は教育ではない。
 教育は、子どもを、共同体成員としての責務を果たし得るまでに成熟させる、という機能を担っている。
 共同体成員として、負託された義務を果たし、弱者を支援し、限りある資源の公正な分配を気づかう人間をつくること、それが教育の目的である。
 だが、「詰め込み」回帰を求める人たちは、いつも「競争を通じて、弱者を蹴落として、自己利益を確保すること」を学習の動機づけに使うことに心理的な抵抗がないように思われる。
 おのれの学力をもっぱら自己利益のために利用する子どもを育てることは、教育ではない。
 そう言いきれる人が、今の教育行政の要路に存在するだろうか。


 これがそのメモだった。教育の目的はこういうところにあると断言している。きっぱりと言い切っている。現代の世相を見れば、このように言いきらなくてはならない状況にあるのは確かだ。このメモはたぶん「ゆとり教育」を批判して、再び「詰め込み的な知識量教育」へと、文教政策のかじがとられたときのものだと思う。
 

 「ヤヒ族は白人の卑劣な残虐行為によって死に絶えた。最後に生き残ったのがイシだった。彼は何年間もひっそりと山の中に身を隠して暮らした。野生インディアンが生存していることを悟られぬように、一歩歩くごとに足跡を掃いて消していた。そしてイシはたった一人の生き残りとして文明社会に現れた。
 人類学者のアルフレッド・クローバーは、イシをもっとも親しく知っている人だった。1900年、カリフォルニアにやってきたアルフレッドは、無数のインディアンの部族が破滅させられ、個人が殺されるのを目撃してきた。原住民のイシの部族の言語、暮らし方、知恵などをアルフレッドはイシから学んだ。
 イシの伝記は妻のシオドーラ・クローバーが書いた。
 クローバーの娘、アーシュラ・K・ル=グウィンは、その後書いている。
 イシの足は幅広で頑丈、足の指はまっすぐできれいで、縦および横のそり具合は完ぺきであった。歩き方は優美で、一歩一歩は慎重に踏み出され、まるで地面の上をすべるように動くのであった。足取りは、侵略者が長靴をはいた足で、どしんどしんと大股に歩くのとは違って、地球という共同体の一員として、他の人間や他の生物と心を通わせながら軽やかに歩いた。イシが孤島の岸辺に一つ残した足跡は、おごりたかぶって、孤独に悩む今日の人間に、自分は一人ぼっちではないのだと教えてくれるだろう。
 このクローバーの娘、アーシュラ・K・ル=グウィンによって、『ゲド戦記』は書かれた。」


 故・鶴見俊輔はこの話をして、「20世紀にもすばらしいことがあった。」と言った。
 それもメモにあった。




 
 

弱点、ダメなところを乗り越える

 ずいぶん前になるが、NHKテレビに「課外授業」という番組があった。マジックをやっているマギー司郎が子どもたちに授業をした。
 マギー司郎が話しかける。
 「自分は子どもの頃から人前でものが言えないダメな人間だったんですよ。」
 中学卒業してからマジックの世界に入った。下手なマジックだったから、全く受けない。ストリップ劇場の前座でマジックをすることになり、やってみた。やっぱり受けない。がっかりした司郎は、ぽろりともらした。
「私もたいへんなんですよー」
 その一言が受けた。観客がどっと笑った。
 そこからマギー司郎は独自の世界を創っていく。トークをまじえたマジックは観客の笑いを生んだ。
 「課外授業」で司郎は、マジックを見せながら、自分の生い立ちを語っていった。子どもたちはぐんぐん引き込まれていった。話を吸い取っていくようだった。 
 司郎先生は宿題を出した。
 「自分のダメなところは何ですか。自分の何がダメですか。次の授業までに考えて紙に書いて出してください。」
 子どもたちは考え、書いた。けれどもそれを発表するのは恥ずかしい。できない。司郎先生は子どもたち一人一人と向き合って話し合った。
 先生の真情あふれる言葉に背中を押された子どもたちは、自分のダメなところを口に出し、発表することによって乗り越えていこうという気持ちになる。子どもたちは校舎の屋上に行った、そこで個々に、マジックの練習を繰り返しながら間のトークに、自分のダメなところを織り込んでいった。その真剣な表情には、大きな一歩を踏みだす勇気が滲みだしていた。
 練習が終わってから、司郎先生は言った。
「発表は隣のクラスに行ってやります。」
 さらに大きな壁だった。そこをも子どもたちは乗り越えて発表していく。
 一人ひとり発表し終えたとき、マギー司郎の目にも、子どもたちの目にも、涙があった。
 この授業は、数時間の飛び入りの授業であったが、計り知れない感動を与えた。弱い自分を認め、弱い自分を受け入れ、「こうあらねばならない、自分はできない、自分はダメだ」という観念に縛られていた自分を見つめ、そこから大きく育っていこうとする子どもたちの顔にはすがすがしい笑顔があった。
 自分そのままを、自分のありのままの人生を、子どもたちに見せたマジシャン・マギー司郎の愛情、子どもたちに注がれていた優しい笑顔が印象的だった。