問題発言という現象

 

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 大臣や政府関係者の発言が問題視される事態が続いている。その発言によって、大臣が辞任するというニュースも今朝の報道であった。

 人間の発する言葉の意味するものが問題となるのだが、言葉だけが問題視されてしま

うと、重要なことが抜け落ちていく。「口は災いの元、気を付けよう」で終わるから、

本質は何も変わらない。本質が変わらない人間がお詫びする。だから、お詫びの言葉がとおりいっぺんの共通語になっている。

 なぜそのような問題発言が出てきたのか。何が問題なのか。その人の、どのような思想、思考、知性、感情から出てきた言葉なのか、すなわち言葉の奥に潜むものが問われることが少ないから、そして本人もそれを問おうとしないから、根本的な解決に至らない。また繰り返す。さらにもっと悪質になる。このような事態が、その世界の土壌となる。

 なぜ本質的なところで変わらないのか。

 いつも思うのは、どうしてこういう人が政治家になり官僚になったのか、という問いである。なぜそういう人が政治家になっているのだろう。官僚の生きている世界の実態はどうなっているのだろう。

 結局そいう人間を生み出す土壌がドカンと存在するのだ。政治の世界、官僚の世界、さらには日本社会のなかに、その土壌がある。それが問題なのだ。司法の土壌、教員の土壌、警察の土壌、そこでどんな人が育っているか。地域社会という土壌、そこでどんな市民が育っているか。

 今朝の新聞で、憲法学者の蟻川恒正が「憲法季評」に書いていた「横畠長官発言から見えること 崩された内閣法制局の自律」という小論は、重要な指摘だと思った。

 問題の本質に気づかないで、言葉だけの問題としてしまうから、気づいた時にはすでに、コトは危機的に進んでいた、ということになる。

 「中学生が書いた 消えた村の記憶と記録」<2>


 「子どもの村中学校アカデミー」の「プロジェクト」は、人間が生きる上でもっとも基本的な営みから題材をとり、少なくとも一年間、広く深く学ぶ体験学習で、毎週11時間がこれに当てられる。「アカデミー」というクラスには担任がいない。活動計画は自分たちで立てる。担任はいないが、活動を支える「影の大人」がいる。しかし、基本的には何でも中学生だけでしなければならない。「プロジェクト」は木工、米作り、演劇、ビオトープづくりなど、これによってクラスが分かれる。小学生中学生は、週に一回集まって、全校ミーティングを行なう。そこでは少数派の意見も重視される。
 旅行にはよく行く。クラス旅行、国内修学旅行、イギリス修学旅行などがある。イギリス修学旅行も行きたい所は自分たちで決める。スコットランドアイルランドに行くこともある。
 「消えた村研究プロジェクト」では、なぜ村が消えたのか、その村の暮らし、歴史、文化を現地に行って聞き取りなどしながら調べる。この活動は、全国をくまなく歩いて調べた民俗学者宮本常一の研究を思い起こさせる。
 子どもたちは、まず自分たちの住んでいる勝山市から消えた村を調べた。北谷町明治44年では人口が3600人だった。それが今は300人、その中の「中野俣集落」は0人になり廃村になった。
 かつての中野俣の産業は、炭焼き、養蚕、稲作、わら細工などで、冬場は出稼ぎに出ていた。子どもも労働に従事した。小学4年生5年生の女の子が、背よりも高い炭を背負って何キロメートルも山道を運んだ。「子守り」も小学生の仕事だった。佃煮屋に売る山のフキ取りも仕事だった。
 方言も調べる。生活用具も調べる。いろりの研究、伝統行事の研究などをやっていくなかで、村が消えていく原因を探っていく。なぜ過疎が起きるのか。過疎が始まるのは1955年頃からだった。国の経済成長に連れて若者が村を出ていった。エネルギー革命が始まると、石炭燃料は石油、天然ガスに変わり、木炭は売れなくなった。村の生産物、木材、穀物も売れない。
 調査、聞き取りをしながら子どもたちは考える。どうしたら村を残せるか。若者が村にとどまって生活するにはそこに生きることの誇りや魅力を感じる仕事が必要だ。行政はどんな支援をしてきたか。
 子どもたちはさらに他の廃村を研究する。1963年に消えた野向町は、雪崩によって死者が出た豪雪が原因になっていた。三つ目の村は西谷村の集落。1955年のときは3436人の人口だった。そこは福井でももっとも雪や雨が多いところだった。峡谷で閉ざされ災害が多い。そこにダム建設が始まる。そして水没。子どもたちはその村には伝統の祭りや踊り、食生活もあり、平家の落人伝説もあったことを調べた。
 岐阜県徳山村も調査した。ここはダム建設で水没した。滋賀県脇ヶ畑村、奈良県吉野郡上北山村東ノ川も現地へ行って調べた。東ノ川林業が盛んだった。木材の搬出は川のいかだ流しだった。ここは水力発電のダム建設で消えた。
 これらの現地調査を経て、子どもたちは考えた。
 村が消える原因として、「仕事・産業が無くなったこと」、「自然災害が生活に打撃を与えたこと」、ダム建設が行なわれたこと」、「村が奥地にあって交通が困難だったこと」、「子どもの進路・進学就職が閉ざされていたこと」、「若者が出ていって高齢化が進んだこと」などを子どもたちはあげている。
 そこから子どもたちは考える。「村を残すべきか」
 日本は外国から食糧、材木、原油などを多く輸入している。日本の食糧の60%が輸入である。農山漁村が消えると、日本の食糧生産はさらに少なくなる。これは重大な食糧問題となる。また村が消えることは、文化が失われることだ。村の生活は、そのものが文化である。一人ひとりの村民の生を大切にすることを考えなければならない。
 さらに子どもたちは考える。「過疎は止められるか」
 過疎の村でも、過疎の村ならではの特産品をつくって仕事を生みだし、村を活性化させているところがある。また古い町並みや景観を観光名所にしているところもある。
 勝山の過疎対策は、勝山の特色を活かしたものである。勝山は恐竜の化石産出が日本一で、恐竜博物館をつくり、世界から人を呼んでいる。スキー施設も充実させた。サバの「なれずし」も名物になった。過疎地の空き家を利用して、「古民家再生プロジェクトを立ち上げ、都会から人を呼ぶ。「子どもの村」も廃校を利用して生まれた。
 子どもたちは、「人間の心の問題」についても考えた。
 昔からの村は、「ムラ社会」とも言われる。以前からのしきたりを持ち、自分たちは正しいと思っているから、新たに移住してきた人たちの考えを受け入れないところがある。そのために、「ムラ社会」を避けて村を出ていく人もいる。
 また、「農山村再生『限界集落』問題を超えて」(小田切徳美 岩波書店)には、山村地域の住民が、村に住み続ける意味や誇りを失いつつある「心の過疎」の存在を紹介している。「復刻版 村の若者たち」(宮本常一 家の光協会)は、村にいることの孤独感について紹介している。地域再生や若い人に来てもらうという活動も、この住民の心の問題を抜きにしては進んでいかない。
 彼らはこう結論付けている。
 現状では過疎を止めるのが難しい地域も多く、いくら対策しても消えていく村もある。
 ではどうしたらいいのか。子どもたちはここから、日本という国を視座に考え続けていくだろう。
 そういう子どもが、この小さな学園から育っている。教育にたずさわっている教員はぜひこの本を読んでほしい。

 「中学生が書いた 消えた村の記憶と記録」


 先日図書館で、「中学生が書いた 消えた村の記憶と記録 <日本の過疎と廃村の記録>」(黎明書房)というタイトルの本を見つけた。著者名を見て驚いた。「かつやま子どもの村中学校 子どもの村アカデミー著」とある。おお、なんと堀さんが監修している。
 なかを開けてみると、すごい調査と研究の記録だった。それを中学生たちがやっている。この学園の「アカデミー」というのは、中学生たちが行う体験学習のプロジェクトなのだ。

 教壇に先生が立って教えている。生徒たちは座席に座って聴いている。教える人と教えられる人、授業はこういう姿で行われる、明治以後続いてきた学校の原風景である。
 しかし教育の原点というと、この形ではない。
 一人ひとりの子どもが、何を考え、何を想い、何を学ぶか、それが生きて行なわれているか、そこに教育の原点がある。何ものにも支配されず、強制されず、子どもが主体的に学んでいるところに原点がある。
 学校とはどういう世界か。
 理想を追求した人たちが世界にいる。イギリスのニイルはその一人。ニイルのつくった学校がサマーヒル、世界一自由な学校と言われている。その教育論と実践を受け継いだのが堀真一郎さんだった。堀さんは、大阪市立大学の教員だった時に「ニイル研究会」を開いていた。そして1992年、和歌山に「学校法人 きのくに子どもの村学園」を設立した。
 この学校には、試験がない、宿題がない、チャイムが鳴らない、学年の壁がない、体験学習が中心、先生と呼ばれる人がいない、地域社会との間に壁がない。
 福井県勝山市は1954年に生まれた。市の小中学校には500人近くの子どもがいた。ところがその後過疎化が進んだ。1994年、小学生一人になった。とうとう廃校。
 勝山市の市長と教育長は、なんとしても学校を残したいと考えた。そこで「学校法人 きのくに子どもの村学園」に声をかけた。校舎もグラウンドも無償で貸す、子どもの村をつくらないか。かくして1998年、二校目の「かつやま子どもの村」が生まれた。
 その後、「子どもの村」は、福岡県北九州、山梨県南アルプスにもつくられた。

 「中学生が書いた 消えた村の記憶と記録」は、250ページにも及ぶ。その冒頭は、アカデミーの子どもたちのこんな文章で始まっている。

 「2015年夏、私たち『子どもの村アカデミー』というクラスは、世界の子どもというテーマで活動していました。児童労働や病気で苦しんでいる子ども、ストリートチルドレンなどについて調べていたのです。校外にも出かけて、自転車で世界一周をしたミキハウスの坂本達さんや、大阪の釜ヶ崎というところでホームレスの支援活動を行っている『旅路の里』の高崎恵子さんに、世界各地の子どもの生活について話を聞いて情報を集め、その内容を一つの冊子にまとめました。」
 それから三カ月した時に学園長の堀さんから、勝山の近くの村がまたひとつなくなったことを聞く。これまでも消えた村の調査研究は先輩たちがやっていて、2014年に本にもなっていた。その後にまたも村が消えていく。堀さんから情報を得た子どもたちは、その廃村をたずねて研究を開始した。
 この本はその記録である。
 
 
 

 加美中学1985年卒業生同窓会 <4>

 同窓会の翌朝、道頓堀の川端に造られた木の桟橋の遊歩道をひとり散策した。川の水は緑に濁り、これでは魚は棲めそうにない。以前、堀をきれいにしようというキャンペーンで、EM菌を水に投入したり、空気を水中に送る装置で浄化を行なう活動があったようだが、今は何をしているんだろう。水面にいくらかゴミも浮かんでいるが、多くはない。向こうから歩いてくる労働者風の人がゴミの入ったポリ袋を川の中へポーンと投げ込んで行った。おじさん、そりゃだめだよ。ベンチにホームレスの人がいた。横断幕が川端に張ってあり、2020年とか25年とかに大阪で国際会議があるらしい。それに向けて川をきれいにしようと呼びかけているのだろう。それならますますクリーンにしなけりゃならないよ。若い警察官二人に出会ったから、堀のことを聞いてみる。
 「道頓堀はきれいになっているんですかね。」
 「前よりはきれいになっているようですよ。魚が跳ねているのを見たことがあります。」
 ふと思った。大阪は全国の学力テストの児童生徒の成績が全国最低であるらしい。そこで大阪市長は学校を叱咤激励して、成績の悪い学校の教員の給料を下げるぞと言っているらしい。なんともはや、あきれたもんだ。生徒の学力は「学力テスト」で測れるもんではない。川の水を見ていてひらめいた。学校教育を改革するというなら、この道頓堀の周辺の小中学校の生徒たちがこの堀川にやってきて、水のきれいな川にしようという教育活動をしてみたらどうなんだ。それこそ江戸時代から愛されてきた故郷の川を子どもたちで取り戻す壮大な事業をやることになり、その教育効果は、学力テストで測れるものではない、もっと大きなノーベル賞ものになる。川を浄化し、澄んだ水に魚が泳ぎ、カモなどの鳥がやってくるようにするには、どうすればいいか。子どもたちは研究し、学者・研究者・実践者から学び、協力も得る。水の調査をし水質を調べる。川の底はどうなっているか調べる。水質をよくする方法は何か、海外の研究と実践も調べる。そして学校などで研究発表会を行なう。そこから生まれてきた浄化の方策を実施に取り掛かる。この実践からいろんなことが分かってくるし、発見・発明も生まれるだろう。子どもたちの意識も変わるだろう。郷土・社会に対する見方、精神も変化するだろう。さらに市民の意識も変わる。この体験がもたらす教育効果は計り知れない。
 堀端を歩きながら、ぼくはそんな空想をしていた。自分はもう何もできないけれど。
 ホテルで朝食を食べながら、安井さんにこの話をしたら、彼も大阪の教育を憂えているから共感するものがあったようだった。
 ホテルを出て、昨夜の同窓会に来た生徒より三年前の加美中学の卒業生で、とびきりのツッパリだったシンちゃんに電話を入れ、九時半に平野駅へ行った。駅につくと、車で待っていてくれた。シンちゃんの焼肉店は自分で工事したもので、キープした酒のボトルが棚に三十本ばかり並んでいる。そこへ同級生の中谷とバチコが来た。午前中はそこでおしゃべりに花を咲かせ、12時に藤井寺のレストランで待ち合わせしている同級生のところへバチコに車で送ってもらった。
「ヨッサンに会いたいと、私の母が言ってるから会ってよ。」
 バチコは車を運転しながらそう言いだして、12時も迫っていたけれど、同じ藤井寺市内の応神天皇陵近くにあるバチコのお母さんの家に車を走らせた。バチコのお母さんとは、バチコが卒業してからの再会で、大喜びだった。

 加美中学1985年卒業生同窓会 <3>


 「先生、『おうとつ』の中谷です。」
 背中越しに顔がのぞき、声をかけてきた男。
 「おう、中谷君‥‥。」
 声が詰まって出てこなかった。卒業してから一度も会っていない。15歳の中学生は今や48歳のりっぱな社会人、まさか、まさか、「おうとつ」編集長の中谷君に会えるなんて予想もしなかった。
 「『おうとつ』の中谷です。」と開口一番に言うということは、あの当時、あのクラスでは、そしてぼくにとっては特に、強烈な出来事だったことを、33年の年月を経ても中谷君が認識していたということだ。もう我が人生で会えるとは思いもしなかった『おうとつ』の中谷。卒業してから音信の絶えたたくさんの卒業生の一人。

 二年生でぼくの受け持ったクラスに中谷君がいた。クラスでぼくの発行していた学級通信のタイトルは「ていてつ」だった。「ていてつ」は小熊秀雄の詩「蹄鉄」に由来する。
 「わが馬よ 私は蹄鉄屋」と小熊秀雄が詠った。


   私はお前の爪に
   真っ赤にやけた鉄の靴をはかせよう
   そしてわたしは働き歌をうたひながら
   ――辛抱しておくれ
     すぐその鉄は冷えて
     お前の足のものになるだろう
     お前の爪の鎧(よろい)になるだろう 
     お前はもうどんな茨(いばら)の上でも
     石ころ道でも
     どんどん駆けまわれるだろう
  
 ぼくはそういう蹄鉄を生徒たちに用意できるか分からないが、できる限りのことはやりたい。小熊秀雄はつづける。


     私の友よ、
     青年よ、
     私の紅い炎を
     君の四つ足は受け取れ、
     そして君は、けはしい岩山を
     その強い足をもって砕いてのぼれ、
     トッテンカンの蹄鉄うち、
     うたれるもの、うつもの、
     お前と私とは兄弟だ、
     共に同じ現実の苦しみにある。

  
 学級通信は、生徒の生活ノートと密接につながっている。生活ノートは毎週一度生徒は提出し、ぼくはそれを読んで返事を書いた。生活ノートには子どもたちの心のなかが現れてくる。仲良しグループからはじき出されたつらさを書く子もいた。ぼくは、クラスで起こっていることを生徒たちに知らせるために学級通信を使った。生徒の対立や仲間はずれなどの確執をつかむと学級通信に掲載した。悩んでいる子の気持ちも通信に載せる。いじめや対立、差別が起きると、ぼく自身も自分の考えを書いて学級通信に載せ、みんなの意見を聴くことにしていた。
 学級活動の時間に学級通信を配ると、クラスはしーんと静まりかえり生徒たちは真剣に通信を読んだ。
 「記事を読んでどう思ったかをまた生活ノートに書いてきてください。」
 生徒にそう伝え、そしてまた提出された生活ノートを読んで、そこに書かれていた意見にぼくの意見を書き入れ、これは参考になると思えた生活ノートの意見を次の学級通信に載せる。こうして、紙上討論を組んだ。男子の問題には女子が冷静な判断を示し、女子の問題には男子が書いた率直な見方が影響力をもたらす。男子からの意見は女子も冷静に受け入れることができた。日本の学校では、生徒たちが口頭で討論する力が養われていない。紙上討論はそこへのアプローチでもあった。
 学級通信には、社会記事や人物記事、評論、声を紹介することもある。討論の場になった学級通信は文集なみのページ数になり、生徒たちはむさぼり読んだ。一年間で発行する通信数は五十号を超える年もあった。
 二学期に入って、一週間ほどたったころだった。学級活動の時間に教室へ行くと、教室はシーンとして、みんな熱心に何かを読んでいる。おかしい、今日は通信を発行していないのに、何かを読んでいる。すると中谷君がいたずらっぽく、にやりと笑った。何だ? 何かあるな。
 読んでいるものの表紙を見ると「おうとつ」となっている。何? 教室に笑いが湧き起こった。
「ぼくらがつくった学級通信」、と中谷君は笑いながら言った。中谷君が中心になって何人かで作った「おうとつ」、すなわち「凹凸」。「ていてつ」に対抗する生徒の学級通信。十ページに及ぶ「おうとつ」創刊号には、丹念なぼくの似顔絵も載っている。中谷君は絵やイラストが得意で、編集は見事なものだった。
 対抗馬が現れた。これは負けてはおれん。「ていてつ」と「おうとつ」の競い合いが始まった。するとみんなの愛読は、「おうとつ」だ。「おうとつ」の人気記事は、ユーモアあふれるインタビュー記事と似顔絵シリーズ、そしていたずらっけのあふれる編集だ。
 教師と生徒の、二つの学級通信が競いだしてから、クラスの雰囲気が変わってきた。これは文化の香りかなあ、文化が子どもを変える。学級の子どもたちが主体になって動き出せば、そこに文化が生まれてくる。淀川中学校二期生のとき、ぼくのクラスに、学級新聞社が三つ生まれて、発行を競い合った。あのときも、放課後の時間は学級文化が花開いていた。
 クラスに小社会を作っていくことを目指し、生徒たちの文化を生みだす実践は、歴史的に観れば生活つづり方教育の流れにある。
 「おうとつ」が生まれ、学級が秋の文化祭に向けて動きだしたとき、
 「二年生のクラスで、一時的な転入生を受け入れてくれますか。」
 教頭が教師たちに言った。
「事情があって、この地域に住んでいる親戚を頼って来た母子です。福岡から逃げてきたということです。子どもをこの学校にしばらく受け入れてほしい。知らない人がこの子を捜しに来ても、引き渡さないでほしいということです。」
 一時避難か。その子を私のクラスで受け入れることにした。翌日、小さなゴマメのような男の子が教室に入ってきた。
 ぼくは教室で紹介した。
 「風の又三郎君です。九州から転校してきました。」
 「又三郎」が彼のニックネームになった。クラスでは、班を作って班で学習も掃除などの生活も協力しながらやっている。又三郎は美和の班に入った。美和の班には、クラスでいちばん小さなクニヒロがいた。又三郎はその子より小さい。又三郎は素朴な愛らしい子で、クニヒロの格好の仲よしになった。
 文化祭に向けて、クラスの子らは貼り絵の壁画を制作していた。又三郎も貼り絵の制作に加わった。又三郎はたちまちクラスの人気者になった。
 半月ほどして、ぼくの国語の授業の最中だった。
 「先生、あの子また転出です。」
 教頭が廊下に立っていた。
 「今すぐに家に帰してほしい。母親からの連絡で、またどこかへ移るそうです。」
 またどこかへ逃げなければいけないのか。ぼくは教室に入って言った。
 「又三郎は転校します。今すぐです。」
 「えーっ、そんなあ。そんな無茶なあ。」
 美和が叫ぶ。
 「又三郎、どこへ行くの?」
 又三郎は黙って席を立ち、教頭に連れられて教室から出て行った。
 「私、見送りにいく。」
 美和は言うなり、教室を飛び出した。クラスのみんながどやどやと続いた。生徒たちの心が噴出すると、さえぎることは出来ない。
 校門に行くと、又三郎がお母さんらしい女の人と出ていくところだった。クラスのみんなは鉄の門扉を手でつかんで叫んだ。
「又三郎、元気でやれよ。」
「バイバイ、又三郎」
 子どもたちは別れを惜しんだ。
 文化祭を前にして、みんなで制作してきた貼り絵は完成した。各班の貼り絵を六枚つなぎ合わせると壮大な貼り絵になった。色鮮やかな気球がいくつも青空を行く。その壁画を「希望」と名付け、体育館の入口の壁に貼り付けた。
 又三郎はどこへ行ったのか。消息はまったく分からない。
 秋の遠足は、奈良県三重県の県境にそびえる曽爾高原のクロソ山に登ることになった。ススキの大群落が波打つ高原を歩いて、標高一〇三七メートルのクロソ山てっぺんに至る。脳性マヒによる障がいを持つヒロシは、この登山にも挑戦すると言った。クニヒロは生活ノートにこんなことを書いた。


 「登山のときヒロシが、『あの山、のぼられへん』と言ったので、『ぼくがてつだったろう』と言った。ほんとうは峠までやったけど、ここまで来たから もっと上まであがろうと、また登っていった。何回も落ちそうになったけど、ひっしでヒロシはのぼっていった。
 わたの君、田村君、沢田君もてつだった。そしてなんとか登れた。あのときは、よかった。やったあ、ヒロシ。」


 年を越して、三年生になった。ある日の放課後、生徒はみんな下校したものと思って、ぼくはぶらぶら教室に行ってみた。あれ、誰かいる。ヒロシだ。その隣に女子の学級委員長のリハラさんがいた。
 「まだいたのう?」
 「音楽の話、しています。」
とリハラさんは笑顔で言った。
 「ヒロシ君、ロックを聴いているんだって。私も好きだから。」
 ヒロシがロックを聴いているなんて想像もつかなかった。クラスで成績優秀な女の子と、障がいをもつヒロシとが、誰もいない教室で向かい合ってロックのお話をしていた。学級文化のなかで仲良しが生まれている。幸福とはこういうことかなあと、ぼくは二人を残してそっと教室を出た。

 加美中学1985年卒業生同窓会 <2>


                                 
 明秀はぼくの担任する1年7組のワンパクだった。そのクラスにはワンパク男子が五人ほどいた。授業開始のチャイムがなると、次の授業はヨッサンだぞ、それ行けとばかり、五人にオテンバ一人も加わり、ヨッサンを迎えに、半分はからかうために教室から出てきて職員室の方へ走ってくる。ぼくはそれを見ると、
 「チャイムが鳴ったら席に着いとかんかあ。」
と叫んで教室へ向かった走りだす。彼らは待ってましたとばかり、きびすを返して教室に逃げ帰る。こらー、追っ駆けて教室に入る。すると彼らは席について、にこにこ笑っていた。
 クラスには二人の、障がいをもった子がいた。一人がサトシ。両親は沖縄出身で、大阪に出てきて職につき、サトシが生まれた。サトシは元気に育ち、日曜日になると公園で親子でキャッチボールをした。ところが小学一年生の時に火事で家が全焼した。お父さんは、言った。
 「火事の恐怖が大きかったんです。それが原因になって、発作を起こすようになったんです。発作が知能に影響したんです。」
 障がいをもつもう一人はヒロシ。体は小さく、スムーズに話したり歩いたりできない。家は小さな食料品スーパーを営んでいた。お母さんはヒロシの生い立ちを話してくれた。
 「生まれる時の障がいで、脳性マヒになりました。」
 お母さんはぼくに手記を手渡してくれた。
 「待望の出産でした。忙しいながらもうれしかった。ミルクを飲みながら、おとなしく寝て遊び、静かに過ごしてくれることを幸いに、私たちは階下の店で仕事をしていました。ヒロシはハイハイもせず、遅れが目立ってきたので、保健所に相談しました。骨の状態や検査の結果、脳性マヒと診断され、ショックでした。でも負けていられません。三歳になってなんとか歩けるようになり、努力して三輪車にも乗れるようになりました。小学校入学前に整肢園に入って寄宿生活しました。一か月ほど辛くて泣き別れでした。それから養護学校に入りました。父親は朝、市場から帰ってくると駅までヒロシを送って一緒に登校しました。二年間は付き添って登校しました。やがてバスに乗れるようになり、もっと自信をつけようと、自転車乗りの練習を、お父さんの応援でやりました。汗を流し、涙を流して、何度も転びながら、やっと乗れるようになったときは大喜びでした。人の何倍かかっても、努力して目的達成してほしいという願いが本人にも通じ、たいへん喜んでいました。五年になって、地域の小学校に転校しました。幸い先生、級友の応援で小学校を卒業し、中学校でも元気に登校しています。」
 サトシとヒロシの間に友情が芽生えた。二人はいつも一緒に行動し、サトシがヒロシをカバーした。二人は生活ノートを書き始めた。ヒロシの書く文字は大きく、ぶるぶると震えていた。
 「今日は、やすみやから、どっかいこかなって、あたまのなかで考えていました。けど、いえでひとりボールのうけあいしました。あいてがおらんから空になげて、あそびました。」
 サトシの生活ノートには、いつも野球のことが書いてあり、ヒロシへの友情がにじみでていた。サトシのお父さんは、近所の子どもたちを集めて野球チームをつくり、サトシも入っていた。
 「さっそくれんしゅうをやります。ごはんにベーコン、たまごを入れて、たべました。そのつぎは、なっとうでたべて、それでファイトをもやしてがんばってきたいと思います。十二日は大会で、ヒロシ君のたんじょうびなので、もしかゆうしょうしたら、ぜったいヒロシ君にノートをあげて、ホームランボールをあげます。ヒロシ君のために一ぱつ ホームランを打ちます。」
 ある日の土曜の午後、運動場の真ん中に白いものが動いていた。よく見るとニワトリだ。近づいてみると、うずくまったニワトリは半分腰が抜けていて、羽根は糞で汚れている。とさかがあるから、オンドリだ。おまえ、どこから来たんだ?
 職員室に持って帰って、隣の小学校に電話した。
 「ニワトリを飼育していますか? 逃げてはいませんか?」
 「ニワトリ? 子どもたちで飼育していますけど逃げてはいませんよ。」
 じゃあ、どこから来たんや? しかたなく弱ったニワトリをダンボール箱に入れて、家に持って帰ることにした。箱を抱え電車に乗り、他の乗客に悟られないように気を使った。駅から家まで歩いて持って帰り、とりあえずお前はここにおれよ、と庭に放した。庭には小さな畑があり、ほうれん草が背丈十センチばかりに育っている。腰のぬけたニワトリは庭にうずくまったままだった。水を入れた容器を置き、ご飯の残りを置いて、様子を見ることにした。二、三日して、ニワトリは少し食べるようになった。気がつくと、庭のほうれん草の葉っぱが少なくなっている。どうも食べているらしい。無農薬のほうれん草の威力は強烈だった。一週間ほどして、ニワトリは立ち上がって庭を歩くようになった。白い羽根につやが戻っている。
 朝早く、まだ寝床にいた時だった。突然けたたましい声が外で響いた。ニワトリが時を告げている。ひやーっ、元気になったぞ、よみがえったぞ。
 じゃが、毎朝この調子で時を告げられたんでは、近所迷惑になりそうだ。
 ニワトリはしきりに鳴いている。しかたがないな。ぼくはダンボール箱にニワトリを入れてまたまた学校へ持って帰ることにした。朝の通勤列車は満員のぎゅう詰めだ。そんなところへダンボールを抱えて入り込めるかな。箱を胸に抱えて乗りこんだ。このなかで鳴かれたら困るなあ。鳴くなよ。幸いニワトリも神妙にしていた。
 無事学校に着いて、朝のホームルームにニワトリを持って行った。
 「わあ、ニワトリやあ。」
 大騒ぎだ。いきさつを話し、みんなにアイデアを聞くことにした。
 「このトリどうしたらいいと思う?」
 「トリ小屋作って飼おうで。」
 アベチンが乗ってきた。
 「しかしこれは他のクラスにも他の先生にも秘密やで。内証や。」
 他のクラスの生徒にも先生にも、知られたらあかん。誰にも気づかれないところはないか。
 「体育館の裏の隅がいい。」
 「うん、そこへは誰も来ん。」
 「そこにトリ小屋をつくって、みんなで飼おう。」
 これで決定した。体育館の裏なら誰も来ない。ちょうど新しい校舎の増築が校内の一部で始まっていて、工事の車が体育館の横の裏門から出入りしている。秘密計画は進行した。阿部チンに、明秀らワンパク五人組が、レンガや木切れを拾ってきて、トリ小屋を作った。屋根にはさびたトタンの切れ端が乗った。サトシもヒロシも秘密メンバーだ。
 昼休み、生徒は弁当の一部を持っていってトリにやる。家から食べ残しを持ってくるものがいる。ヒロシは店の野菜の売れ残りを持ってきた。トリは猛烈な食欲だ。何でも食べてしまう。ヤンチャの結束は固い。秘密は厳重に守られた。気になるのは、ときどき、コケコッコーとちょっとかすれた声で鳴くことで、この声を他のクラスの子に聞かれないようにしなければならない。こうして半月ほど無事に過ぎた。
 「せんせー、消えた―、おれへん。」
 ワンパクが職員室に飛んできた。こつぜんとトリが消えていた。小屋の一部が壊れている。ブロック塀の壊れたところから誰かが入って盗んでいったかもしれん、工事をしている人が持って行って、焼き鳥にして食ったんとちゃうか、みんなで学校中を探した。裏門から出て外の道路を探した。逃げたのか、盗られたのか、襲われたのか。壊れかけたトリ小屋を残したままなぞの白いニワトリは忽然と消え、事件は未解決のまま残った。
 

 加美中学1985年卒業生同窓会 <1>


 道頓堀ホテルの宴会場で大阪市立加美中学1985年卒業生徒たちの同窓会があった。ぼくは加美中学には1979年から1989年まで勤務した。剛史君から「ぜひ出席を」との要請電話が来たときは、膝の痛みもあって出席することは無理だなあと返答していたが、ぼくのクラスだったワンパク明秀君が、長距離トラック運転の道中から何度も電話をしてきたことから考えを改め、膝の痛みぐらいで行かないわけにはいかん、辞退することはやめようと決めた。
「分かった、出席する」
と明秀君に返事したら、剛史君からまた電話があって、
安曇野まで車で迎えに行きますよ。」
「いや、そんな必要はないよ。杖ついていくよ。」
というわけで、ついでにいろんな人に会ってこようと三日間の大阪での計画を立てた。6日、土産にする栗やらクルミやらリンゴなど重い荷物ををもって出かけたのだった。台風が心配だったが、幸い大阪には特に影響はなく、懐かしい面々に会えるのが楽しみで、夜7時から始まる同窓会に出るべく特急しなの号と新幹線を乗り継いでいった。
 久しぶりに大阪の街を歩くと、海外からの観光客が目立つ。道頓堀川はどんより濁った緑の水が、動いているのかも分からない。これでもちょっとはきれいになったのかなと思う。
 会場に着くと、そこにいた数人の視線が、ぼくに向けられ、一二秒の観察でそれがヨッサンだと分かると叫び声が起きた。四十台だった時のヨッサンは今や八十。すっかり変わった。集まってきたのは68人。これまで一度も開かれなかった同窓会、もう48歳になる「おっさん」、「おばさん」たち卒業生と老教師との再会、「どの子も」歓声を上げた。やはり「どの人も」ではなく、「どの子も」という思いになる。中学時代の面影がよみがえってくるのだ。だから、堂々たる仕事盛りの社会人も不思議なことにぼくの眼には少年少女に見えてくるのだ。見えてくるというより、彼らのなかの少年少女が戻ってくるのだ。だが33年間という空白は長かった。だからぼくの記憶の底から会った瞬間に当時の顔が浮かび上がる子と、しばらく浮かび上がってこない子とがあった。はて「この子」はだれだったかな、申し訳ないな、という思いが湧く。
「よう、直子。おう、純子。いやあ、アベチン。」
 声が弾み、ハグする子もいる。
 その当時の同僚教師であった安井さんと河野さんがやってきた。安井さんは60歳の還暦を迎えていたから、会の進行の中で、世話人があらかじめ準備していた「赤いちゃんちゃんこ」をステージで安井先生に着てもらうという演出があり、会場は笑い転げた。
 出席できなかった当時の教員たちを事前に訪問してもらってきたメッセージと映像もスクリーンに映された。ぼくは彼らが一年生だった時の記録「ワンパク学級」という文章を朗読して聞いてもらった。
 「いったいどうやってこれだけの人数を集めたの?」
 住所録もなく、住所の変わった人も多い。いったいどこに住んでいるのか分からない。女性は苗字も変わっている人が多い。どのようにして計画を伝えたのか。剛史君に質問した。
 「ラインを使って、卒業生から卒業生に連絡しました。」
 友から友へ、人から人へ、そうして波が広がっていくように企画は伝えられた。
 「ラインで伝えられなかった人もたくさんいます。」
 結局ラインで伝えられた人のうちから68人が来てくれた。剛史君から始まった企画。一人から始まり、十数人の世話人の仲間が生まれ、そして情熱の波は広がった。しかしラインの届かない人もいた。
 7時に始まり10時前までつづいた会は、温かかった。なんとも素朴で人情のあふれる、心の開かれた楽しい会だった。最後に校歌をみんなで歌った。
 彼らが用意してくれたホテルの一室にぼくは泊まった。ほとんどの人が二次会に行ったが、ぼくは行かなかった。安井さんもホテルで泊まり、翌朝朝食を共にして、当時の学校と教育について語り合った。彼もまた、今の教育を強く懸念していた。教育はどうなるのだろうと。