手紙

 

 

 

 部落解放同盟前委員長の組坂繁之さんの記事が、朝日の9月3日に大きく報道されていた。

「水平社宣言一世紀」という見出し、オピニオン記事だ。

 新聞記事は紙面の限界があるから、記事内容がどうしても多くの割愛がなされて、言葉足らずになる。インタヴューはこんなもんではなかったろう。

 記事の中で、こんな部分があった。若いころ、いくつかの差別を体験してからだった。

 

 「部落差別のない海外で暮らしたいと思いました。陽気な土地柄にあこがれてメキシコに行こうとスペイン語も学びました。‥‥

藤村の小説『破戒』を読み、被差別部落出身の瀬川丑松が教師を辞めて米国を目指した姿は、差別から逃げてメキシコに行こうとした自分と重なりました。‥‥

印象深かったのは、フランツ・ファノンの著作『黒い皮膚・白い仮面』でした。ファノンは奴隷の子孫で、精神科医となってフランスの白人社会に同化しようとしたが、黒人差別と直面する。ファノンは問題と向き合い、差別の不条理と闘うようになる。‥‥

21世紀は人権の世紀と言われます。しかしロシアによるウクライナ侵攻では人の命や尊厳がないがしろにされています。国家が戦争を起こすと、あらゆる面で人権が犠牲になる。戦前の全国水平社も、軍国主義の流れの中で抵抗しきれず戦争協力に転じた。戦争は絶対起こしてはいけません。‥‥」

 

 組坂さんはそこから自分の生き方を変え、部落問題と向き合っていった。27歳で解放運動に入り、24年間中央執行委員会委員長を務めた。

 

 この記事を読んで、我が著作「夕映えのなかに」との関連から、組坂さんにぜひ手紙を送りたいと思った。早速、私が小学時代から体験してきた、「差別と人権」について思いを書き、住所が分からなかったから朝日新聞社に問い合わせると、本社の方へ手紙を送ってくれれば、それを組坂さんに送るということなので、長い手紙を書いて送った。

 

 

 

 

 

 

愛児を亡くした父の悲しみ

 田中冬二は、1933年、満二歳の立子を亡くした。

愛児を亡くした父の、「寂しき夕暮」という詩は、哀しい。

 この詩のタコチャンのところは、原詩では「takochan」になっている。

 

 

       寂しき夕暮

        かえらぬもの

 

夕暮れ フランスの旗のようなうつくしい夕暮れ

夕餉時(ゆうげどき)を外へ出て タコチャン タコチャンと呼んでみる

タコチャンは どこからか 未だかえってきそうな気がする

タコチャン タコチャン 呼んでみる 空しい

あのかわいいタコチャン どこへ行ったのだろう

タコチャンはいる きっといる

夕映えに茜色している山 タコチャンはいる

タコチャンはきっとあのさびしいカッコウドリになって

カッコウ カッコウと 父さんや母さんを呼んでいるだろう

高い木の梢 タコチャンはふかふかと木の葉に包まれた揺籃に

もうやすらかに 眠っているかもしれない

彼女が残していった小さなスプーンと

いちばん好きだったウサギさんのおもちゃの夢をみて――

夕映えの美しい夕暮れ 夕餉時 外へ出て

タコチャン タコチャンと 私は何度も呼んでみる

それだのに こだまさえ かえってこない

 

 

 

 

 ウクライナでは、今も街も公園も農場も、破壊され焼き尽くされている。

 ウクライナの子どもたちはどこへ行っただろう。

 

 

 

 

 

 

戦争論 12

 

 吉本隆明の「私の戦争論」。

 アジア太平洋戦争回避の道はあったか。

 「回避の道はあったと思う。当時の日本国の責任者、政府首脳が、アジアに植民地を持っていた欧米諸国の首脳よりも、もっと高度な視点をもち、そうして事態に対処していれば回避できたんじゃないか。いくら経済封鎖されても、欧米諸国の首脳たちを凌駕するだけの、見方、考え方があったなら、つまり文明文化、軍事力、国家のありようをさらに一段高い世界史の視野から眺められるだけの見識と器量があったなら、戦争を回避できたんじゃないか。当時の日本の責任者、天皇も政治家も軍人もそういう観点を持てなかった。」

  そして「神国日本は負けない」と、一億火の玉となることを強いた。

 ではなぜ日本の指導者はそういう力を持てなかったのか。何がそれを妨げたのか。そういう見方のできる人がいたけれど、封殺されていたのか。

 我らは共通の祖先をもつ大和民族、祖先を同じくする民族で形成された日本国家、万世一系天皇の統治する神の国、その考えが強調され、ナショナリズムを高める。

 

日本人の祖先は同一であるかのような考えは奈良朝以後に形成されたもので、日本列島にはもっと前から人が住んでいた。黒潮に乗って、南から琉球弧づたいに海を渡ってきた人たち。朝鮮半島や中国大陸から、旱魃、災害、戦争などから脱出し、海を渡ってきた難民たち。

琉球人やアイヌ人とよく似た遺伝的要素を持っているのが南北アメリカの原住民であり、日本語とスリランカの言語に共通性があり、パプアニューギニアの言語と共通性がある、という。

 

 

 

 

 

 

 

戦争論 11

 

 新船海三郎君は、これまでの世に出ている膨大な戦争文学を読み、「戦争は殺すことから始まった」という著書を出版している(「本の泉社」)。

 「黙殺、忘却、無視‥‥は過去のことではない。現代日本もそうである。私たちは屑籠をあさってでも、引っ張り出して、その加害をあらためて認識しなければならない。」

 新船海三郎君は、戦争文学、記録をかたっぱしから読み込んで、日本軍の蛮行について考察した。

 戦後日本は、戦争責任の追及をあいまいにしてきた。、だが、戦争犯罪、その責任は消えてしまうわけではない。堀田善衛は「時間」という作品で、中国南京を侵略した日本軍の、暴虐の限りを尽した犯罪を、中国人の陳英諦の眼であばきだし、人間とは何かを問うている。

 

 「何百人という人が死んでいる。しかし何という無意味な言葉だろう。数は観念を消してしまうのかもしれない。これほどの人間の死を必要とし、不可避的な手段をなしうべき目的が存在しうると考えてはならぬ。死んだのは、そしてこれからまだ死ぬのは、何万人ではない。一人一人が死んだのだ。一人一人の死が、何万人にのぼったのだ。何万人と一人一人、この二つの数え方の間には、戦争と平和ほどの差異がある。」

 「自分自身と闘うことのなかからしか、敵との闘いのきびしい必然性は見出されえない。この原理原則にはずれた闘いは、すべて罪悪である。南京だけで数万の人間を凌辱した人間たちは、彼ら自身との闘い、その意志をことごとく放棄した人間たちであった。」

 

 新船は、この論の中で考える。

 「人間は、占領され隷属化されても、生きることを考える。その際、本能的な愛国心などというありもしない情緒的「悪」を組織し、それをもって戦争に駆り立ててはならない。

人間は予想を超えて悪逆非道を行うものだ。それを戦争だからと、肯定してはならない。‥‥

 希望は、担うに重い荷物なのだ。われわれは死ぬまでこの荷物を担ってゆく義務がある。義務は、私が私に課したものだ。その重さに耐えられず、ひるみそうになる自分と闘わなくてはならない。そこからしか、敵との闘いの厳しい必然性は見出されない。」

 

 

 

 

 

 

 

戦争論 10

 

 高橋源一郎は、古山高麗雄の戦争小説を高く評価した。

「古山は、戦争という大きな物語を、小さな個人の物語に接続させることに生涯を費やした。」

 

 1920年、植民地朝鮮の新義州で生こまれた古山は、京都三高に学び、1942年に軍に召集された。入隊した古山は、南方各地を転戦し、サイゴンで敗戦、捕虜収容所で刑務所生活を送った。

 古山は日本に帰還、小説を書き始めるのは25年経ってからの1970年、戦場体験だった。

小説に次のような体験の記述がある。ミャンマー進駐の時だった。上官から、「村から逃げ出すやつはみんな撃て」の命令があった。

 逃げていく婦人と10歳くらいの女の子がいた。それを見た古山は、「自分に撃たせてくれ」と頼み、重機関銃を二人に向けて撃つ。が、古山は意図して弾が当たらないように撃った。逃がしたのだった。古山は、戦場では「正常」だとしていることの異常を感じ取っていた。古山はこの戦争の世界の秘密に触れる。

 「大きなもの」に運ばれて、どこか知らない所へ連れていかれる「アリ」たち。今生きている人間が「何か」によって「無力なアリ」になっている。

 古山は、戦場の兵士用につくられた慰安所にも行かなかった。

 古山は夜、捕虜の監視に立った。捕虜たちは衣服をはぎ取られ、寒い闇の中で泣いていた。

 それを見た古山は、捕虜を抱いて温めてやった。捕虜は声を高くして泣いた。その声を聴いた上等兵が飛んできて、古山を叱り、泣いている捕虜を声を上げられないようにするために殴った。古山は思った。ぼくは何もできなかった、ぼくのやったことは、捕虜をいっそう苦しめることになったと。

 

 この小説を読んだ高橋源一郎が問いかける。

 「人はどんな場所に居ても、『正常』でいるためにはどうすればいいのか。何が正常で、何が正常でないのか。それをどうやって判断すればいいのか。

 『戦争』は今もあらゆるところに存在していて、『戦争』という形をとらずに、この問いをぼくたちに投げかけている。」

 

 

 

 

 

 

 

戦争論 9

 

 

 高橋源一郎が、「ぼくらの戦争なんだぜ」という本を8月に出した(朝日新書)。今読んでいる。

 この本の中に、大岡昇平の小説「野火」についての論が長くつづられている。

戦争小説と言えば「野火」だ。「野火」は大岡昇平の経験にもとづいて書かれた。

「野火」は、アジア太平洋戦争の末期のフィリピンが舞台。日本軍はバラバラになり、食料も武器も尽きて敗走を重ねる、その悲惨をつづる。源一郎は書いている。

 

  ☆   ☆   ☆   ☆

 

 「野火」は戦争文学の頂点に立つ。これほど戦争の本質に迫った小説はない。

「野火」は、「彼らの戦争」について描かれ、戦争を通じて、ついには世界の外側に抜け出ていったものたちの物語なのだ。

 「野火」の世界だけではない。世界の「外」へ抜け出てしまった人間の物語はたくさんある。ぼくたちが道徳的であると、倫理的であると、そう考えているものとは背馳した「道徳、倫理」に従う者たちの物語である。そのような者たちの行うことを見て、ぼくたちは驚愕し、恐怖にかられ、人間のすることではないと思う。しかし同時に、心の底ではやはり、それもまた人間のすることなのだとつぶやく。

 世界の内側から外側へ、そこには越えられぬ壁があるわけではない。もしかしたらほんの少しのきっかけで、ぼくらはみんなその壁を超えてしまうかもしれないのだ。

 ぼくたちはみんな、大きなものに巻きこまれたいのかもしれない。

 「戦争」は悲しい。しかし同時にどこかぼくたちを魅了するところがあるような気がする。そのことこそがもっとも恐ろしいものなのかもしれない。

 だとするなら、ぼくたちに必要なのは、最後まで世界の「内」にとどまる、「ぼくらの戦争なのかもしれない。」

 

 

 

 

 

 

 

戦争論 8

重田園江さん(明大教授)が、「戦争への悔恨をかみしめて」という評論を書いていた(朝日新聞8,23)。それはジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」につなげる想いである。

 1945年の日本の敗戦後、戦地の日本人が出会った悲惨も、焦土と化した日本国内の人々を襲った苦難も甚大なものだった。

 重田さんは、戦勝国と敗戦国のその後について考えていた。戦勝国アメリカ、ソ連、中国、敗戦国の日本、ドイツ、イタリア。ロシアの前身であったソ連戦勝国だった。

今、その戦勝国ウクライナを侵攻している。

 

五木寛之氏は、私にとって本当の戦争はあの夏から始まったと書いている。敗者にとっては、敗戦から本当の戦争が始まるのだ。‥‥ 

ロシアを代表する作家、シーシキンは、次のような見方をしている。

戦勝国ロシアは、戦後もなお脱スターリン化がなされず、ソ連共産党の支配には、ニュールンベルグのような裁きもなかった。ソ連時代、数々の残虐行為があったが、それについてロシア政府は何の精査も謝罪もしなかった。スターリン時代からの虐殺や強制移住や、強制収容所での非道の実態は、今も事実を明らかにせず、不問に付されている。その背後に、秘密の諜報機関や特殊部隊がいて暗殺が行われていた。

このようなロシアがプーチンを生んだ。

 

 一方アメリカも、過去の戦争について、反省も謝罪もしていない。ベトナム戦争での枯葉剤散布も、ヒロシマナガサキの原爆も、一度も謝罪をしていない。」

 

 五木寛之はこんなことも書いていた。

 「ぼくにとって戦中戦後も気になる国はロシアです。ソ連兵に出会った原体験が私にはあります。

 ロシアという国には、ひじょうに強い反感と、ひじょうに強い愛着があります。大学時代、ロシア文学を学び、ロシア文化に強いあこがれを抱く一方、ソ連という国の政治のやり方やイデオロギーに抑えることのできない反発があります。ぼくは朝鮮のピョンヤンで敗戦を迎え、その後にソ連軍が進駐してきました。あっという間に家は接収され、着の身着のまま放り出され、難民キャンプに収容されました。ソ連軍の兵士はなんと野蛮な、なんと無教養な、なんと残酷な連中だろうと、恐れと憎しみが湧きました。

 ところが不思議なことに、ロシア人は妙に人懐こく、のんきで、おもしろかった。ある晩、兵営に帰っていくソ連兵の合唱が聞こえてきた。彼らは歌いながら夕闇の中に消えていった。

 ロシア人とはいったい何だろう。あんなに残酷で非人間的なことを平気でやりながら、彼らの歌はいったいなんだ。どうしてあんなに美しい歌が歌えるのか。」

 この文章を読んで、ぼくは日本軍の兵士を思った。中国、アジアに侵略した日本軍の犯した非道の数々。無辜の民を殺し奪い、捕虜を殺害した日本兵の悪行。彼らも、召集されるまでは、正義感があり、情け深く、愛ある人間であったのだ。

 「満州」ではその日本人の開拓民や日本兵ソ連軍によってシベリアへ送られ、極寒の地で強制労働を強いられ、たくさんの人が死んでいった。今もシベリアの大地には抑留された人の骨が眠っている。

 日本が引き起こした侵略戦争の結果、敗北を喫し、そこから非戦の思想を軸に、日本国憲法が生まれたのだった。