16歳グレタさんの胸うつ演説

 

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 村のコーラスの会、練習の合間の休憩で、国連の気候変動サミットでの16歳の女性のことが話題になった。彼女の名はグレタ・トゥンベリ。スウェーデンの環境活動家。

「あの子、すごいね。」

「すごいですねえ。」

「16歳ですよ。」

「あの子の表情と演説、なんか魂の叫びのような、迫力があったねえ。」

「ああいう子が、スウェーデンでは育っているんだねえ。」

「あの子一人の行動が、世界中に広がっているんだから、それに応えて世界で若い人らのデモが置きているんだから。」

「日本ではだめだな。」

「いや、日本でもおきているね。」

「え? 日本でも若者の動きが出てるかい?」

「うーん、人数がまだ少ないね。」

 「日本の若い人たちは、無関心が多いよ。自分とは関係がないと考える。」

スマホばかり見ていて」

「地球の将来がどうなるかなんて、考えていなんじゃないかい。」

「日本の若者を批判してても、どうにもならないよ。今の日本の社会の状態を見ていたら、若い人が無関心になるのは日本の社会がそうなるようにしてきたと思うね。政治や経済がそういうようにしてきたんだから。教育にも問題がある。」

「じゃあ、私たちが動くことかな。」

「そうだ、グチばかり言っていても始まらん。」

 「あの子が演説で言っていたじゃない。金もうけだとか経済発展だとか、そういうことばかりにうつつをぬかして、未来が滅びることを考えない大人たちがこういう地球にしてしまったと。」

「私達がそういう地球にしてきたんじゃないか。」

「彼女は、『若者は、あなたたちの裏切りに気づき始めている。私達を見捨てる道を選ぶなら、絶対許さない』、と言っていたねえ。」

「おれたち高齢者にも、責任があるよ。何もしないでいいのか。」

「高齢者のデモでも、やろうか。」

「高齢者の底力を見せようじゃないか。」

この文章は誰の文章?

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  次の文章は元の文体を変えてあります。いったい誰の文章だと思いますか。

 「世の中のこともよく知らず、学問も芸術も未熟なまま、高い家柄の子息として、地位も思いのままになり、栄華を誇る癖が付くと、学問などで苦労するのは回りくどく思うようになり、遊戯にふけり、そこへもって望みどおりの地位に昇るようなことになれば、権勢に従う者どもが腹の底ではせせら笑いながら、世辞を言ったり機嫌をとったり、その当座はひとかどの人物らしく思えて、偉そうに見えるけれど、時代が変わって、親たちに死なれて落ち目になれば、人に侮られ、軽んぜられ、身の置きどころのないようになる。やはり学問をもととしてこそ、大和魂もいっそう重く、世に用いられるものだ。もどかしいようだが、将来天下の器になるような修養をすませることだ。」

 はて、この文章は誰のでしょう。

 この文章の中の「大和魂」の意味は、軍国主義の時代に強調された意味ではありません。広辞苑に、

 「漢才、すなわち学問(漢学)上の知識に対して、実生活上の知恵、才能。和魂。」

 とあります。この後に、こう続きます。

 「源氏物語の乙女の巻、『才を本としてこそ、大和魂の世に用ひらるる方も強ふ侍らめ』」

ということで、上記の文章は紫式部の「源氏物語」です。

 この思いがけない出会い、実は、鶴見俊輔の「近代とは何だろうか」において歴史家の上田正昭が次のようなことを述べていたのです。

 

 「日本文化は雑種文化だと言う人もあるけれども、雑草のようなたくましさみたいなものが日本文化の根底にはあると思うのです。紫式部などはよく見ていたと思うのですが、『才(ざえ)を本としてこそ大和魂の世に用ひらるる方も強ふ侍らめ』と言っている。才は漢才で、それがもとになってこそ、日本人としての判断力や良識、能力はつよくなると言っているのです。この言葉は日本文化を象徴しています。固有なるもの、純粋なるものが尊いんだという、ひよわな文化に対する価値観は、へたをすると悪しきナショナリズムにつながっていくのではないでしょうか。」

 

ぼくは知らなかった

  

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 「科学する心」というタイトルの文章を池澤夏樹を書いている(集英社インターナショナル 2019)。

 池澤は、ぼくが全く知らなかった、思いがけない事実を教えてくれた。

 「科学する心」という言葉は、1940年、戦時中に、橋田邦彦という生理学者が提唱した言葉だったという。

 橋田邦彦は1940年(昭和15年)、近衛内閣の文部大臣に就任した。この年日本は、日本書紀の神話にもとづく神武天皇即位から2600年にあたるとして、国をあげての祝賀行事を行った。すでに中国への侵略と日中戦争は本格化しており、今NHKテレビで放映されている大河ドラマ「いだてん」に描かれているように、この年に開催することになっていた東京オリンピックは、ふっとんでしまっていた。翌年、日米開戦。橋田は東條内閣においても文部大臣をつとめ、1943年に辞任した。

 そこで池澤はこう書いている。

 「あれほど合理を欠く戦争の遂行に対して、科学は彼の中でどう併置されていたのだろうか。石油がなければ戦争はできないことは明々白々だし、糧秣を持たせぬまま兵士を戦地に送れば兵士は餓死する。そういう作戦を実行に移すのでは『科学』ではなく、『心』で戦えという精神主義に陥る。」

 軍部に牛耳られた政府は、戦争を理由に、中学・高等教育の年限を短縮した。兵士を増やすためだ。橋田は、学生を戦場に駆り出す学徒動員には反対した。

 しかし特攻隊は実行に移され、多くの若者が戦死、アジアに送られていた兵士は戦闘と飢え、病によって死んでいった。日本の全土は空爆によって焦土と化した。一方でアジアの各国はこの非情な侵略行為によって破壊され命を奪われた。

 

「敗戦の後、橋田は、A級戦争犯罪人として、日本の警察に連行されようとした矢先、青酸カリを飲んで自殺した。」

 

「文部大臣は親任官である。任命の際に、少なくとも一度は天皇に会っているはずだ。儀式の後で、歓談の機会があったとして、そこで科学に関する話題が出たことは容易に想像できる。」

 

 そこから池澤は、昭和天皇の「科学する心」について書いている。昭和天皇は、幼いときから生物に尋常ならざる関心を持っていた。皇居や御用邸で、昆虫や植物の採集に夢中になった。学習院初等科六年生のときには、「昆虫と植物」という面白い標本を作った。1925年には皇居内に、生物学研究室をつくっている。公務がない限り、研究所で過ごしていた。1941年の太平洋戦争勃発の年には、クラゲの珍しい一種、コトクラゲを発見した。

 そういう天皇が、橋田と生物談義をしたであろうことは十分あり得る。

 「科学する心」をもってする橋田は、戦争をどう考えていたか。「科学する心」が衰え、戦争へ戦争へと、子どもも若者も動員していく戦時体制をどう思っていたか。

 橋田の心を感じ取っていた天皇は、全面戦争に陥って、「科学する心」が衰退していく日本をどのように考えていたであろうか。

 戦後橋田は、どうしてなんの弁明もなく、死を選んだのであろうか。

 文部大臣の職責にあって、科学する心と学生を守ろうとする心は、戦争遂行にひた走る国家の暴力性によって引き裂かれていた。軍国主義国家に追随せざるを得なかった自己を、自ら抹殺するしかなかった。

 生きて弁明すべきだ、そこにこそ科学する心が生きるのだ、と思うものの、橋田は苦悶し、自己を滅ぼした。

 

 

北斎の晩年

 

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  今朝の新聞、福岡伸一が「動的平衡」で、「晩年が最盛期だった北斎」について書いている。(朝日)

  北斎の傑作「神奈川沖浪裏」の版画も、「富嶽三十六景」も、北斎が七十歳を過ぎてからの作だった。

 「北斎は少年時代の原点を忘れなかった。研鑽を積みつつも決して自分の技倆に満足することがなかった。いつも灼けるような焦燥感を抱いていた。壮年期を過ぎてから、自らの最盛期を創出した。」

 死の間際、北斎が言った言葉、

 「天 我をして 五年の命を保たしめば 真性の画工となるを得べし。」

 北斎は六歳から絵を描いた。それからずっと絵を描く人生だった。けれど70歳までの絵に大したものはないと自覚していた。後5年 生きるならば、本当の版画をうみだすことができるのだが‥‥と。

 無念の思いを抱いて北斎は89歳でこの世を去った。後5年生きることができたら94歳、もしそれが実現できたら、この最晩年に彼はどんな作品を残しただろう。

 福岡は、最後にこう書いている。

 「我々は、これからこそ何かをなすべきなのであり、どんなことでも始めるのに遅すぎることはない。北斎は、never too late と叫んでいるのだ。」

 福岡の文章に感銘を受けた。

 僕は今、小説を書いている。この4年間はその長編に没頭してきたが、まだ前編の完成を見ない。疲労困憊になる日が多く、長時間の執筆は体力がもたないから半日執筆、半日農作業などをしている。前編を今年中に完成させたい。北斎晩年の年齢に近づいてきた。

 

ジン君、元気だった

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 ジン君、三ヶ月ほどベトナムに帰っていて、8月末にまた実習生として同じ職場にもどってきた。

 ジン君、日曜日、日本語学習にやってきた。

ベトナム、どうだった?」

「暑かったです。」

「いやあ、日本も暑かったよー。安曇野でも37度近く行ったからなあ。」

ベトナム、もっと暑い。40度以上です。いちばん暑いときは45度‥‥」

「ひえー、暑いなあ。」

「子どもの頃は、32度とか33度とかだった。」

 異常な酷暑は、日本だけかと思ったら、ベトナムも異常な酷暑になっていた。

「やっぱり地球温暖化が進んでいるねえ。地球、どうなるかねえ。」

 被害をもたらす台風も、海水温の異常な高温下で、大きく発達したということだ。海の水が30度とは、えらいことだ。湯ではないか。その湯が水蒸気になって雲を作り、大雨をもたらす。気圧差を拡大し暴風を生む。

ベトナムの家族のみなさんは、元気でしたか。」

「お父さんは前に亡くなっていません。お母さんは、マンゴーとかスイカとかを、農家から仕入れて、市場で売っています。妹は結婚しました。妹の夫はベトナムの海軍に入っています。休暇になったら帰ってきます。今は軍艦に乗っています。」

 ジン君は、ベトナムに帰っている間に日本語検定の二級の試験を受けた。結果を聞くと、だめだったと言う。ズック君も二級を落ちた。残念。ジン君とズック君、なんとか日本にいる間、来年には二級を取らせたい。先に帰ったハー君は、二級を取り、ベトナムで日本語を教えているらしい。でもまた日本に来るそうだ。今度は農業実習生として行きたいと言っていたらしい。ハー君、早く結婚したいと言っていたが、まだ結婚相手が見つからないようだ。

 ジン君はこの冬に雪が少し積もったとき、自転車に乗った。運悪くタイヤが滑って転倒し、頭を強打して入院した。その後退院して仕事に復帰したが、まだ完全に治っていない。薬をいろいろ出してもらっていたのをベトナムに持って帰っていたが、薬は飲まなかった。ときどき頭がクラクラするという。

 

 

ヘッセの手紙

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 ヘッセの、1933年、アルトゥール・シュトルへの手紙。

 

 「以前はヒトラーをあざ笑っていた教養あるドイツ人も、今はヒトラーの言うことを真に受けています。‥‥

 態度を決めて、ヒトラーの反対派に公に加われと言うが、私は拒否する。私はいかなる党派にも属さない。共産主義ファシズムより共鳴はするが、それでも私はそれに与することはしない。そもそもどんな形の権力追求にも従わない。

 詩人や精神にたずさわる者の使命は、平和を促すことであって、戦いではないのです。」

 

 1936年、オットー・バースラーへの手紙。

 

 「私はドイツのジャーナリズムによって、売国奴などというレッテルを貼られています。このことは、当局に対して私の作品を発禁処分にしてしまえという合図なのです。

 ‥‥私の出版社をなにがなんでもつぶしてしまえという亡命者新聞の側は、ナチス式のあらゆる手段を使っているのです。

 私がこれまで逃げ込んでいたドイツ文学のための活動も、頓挫してしまいました。ドイツ文学も、もはや長くはもたないでしょう。」

 

 1945年7月、ヨハンナ・アッテンホーファーへの手紙。

 

 「私はあまりにひどい打撃を受けました。数年前から私の全作品は壊滅状態です。戦争が終わればドイツの読者と日々の糧が得られるだろうと希望を抱いていました。しかし、ドイツの破産は私の破産でもあるのです。

‥‥ものごとをナショナリズムの観点から見るやいなや、自分自身を国家と同一視するやいなや、世界は確かにすっきり単純化されますが、正しく見えてくるわけではありません。

‥‥ヒトラーによって私の全作品が灰燼に帰したこと、妻の親族や友人たちがヒムラーの収容所で、毒ガスで殺されたこと、それらは戦争の悲惨に鍛えられた人たちにとっては、語るに値しないことなのです。

 国境の向こう側に横たわっているものとの間には、冷淡、理解の欠如、理解しようとする意志の欠如という深淵がばっくり口を開けているのです。」

 

ジグーリ

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犀川のあたり、深く朝霧立つ。 

日はまだ昇らず。

常念岳頂上にのみ日があたり、

今日は快晴になるぞ。

霧が広がってくる。

ロシア民謡「ジグーリ」が頭に浮かんだ。

山でよく歌った。山岳部仲間の北さんは、この歌が特に好きで、彼の声はよく響いた。

 

狭霧が流れる野の道で、

だれも僕の歌を聞く人もいない野で、

ぼくは「ジグーリ」を静かに歌う。

 

  川面 霧立ち 野辺に流れて

  うるわし山は ジグーリの峰よ

  うるわし山は ジグーリの峰よ

  

  母なる ヴォルガに 春を迎える

  霧に連なる ジグーリに峰よ

  霧に連なる ジグーリの峰よ

 

歌詞の記憶がすこしあいまいになる。

1965年、シルクロード探検のためにハバロフスクからロシアの飛行機に乗り込んだ。

ジャンボ機の座席は列車のように、テーブルを挟んで向い合せになっていた。

北さんと並んで座ると、前にロジア人のおじさんが二人座った。農夫のようだった。

ぼくらはロシア語がわからない。それでも会話がはずんだ。

初めのうちはロシア民謡を歌ったりした。

「ジグーリはどこにありますか。」

おじさんは、ヴォルガの近くにあるという意味のことを言った。

話はトルストイの「戦争と平和」にからまっていった。

「クトゥゾフはモスクワを放棄した。ナポレオン軍はモスクワに入ったが冬将軍にやられた。」

「そうだ、そうだ」

 

北さんは昨年の冬に逝った。

今年1月、同じ山岳部仲間だった徹が逝った。