アオバトの声

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 最初に播いた黒豆が芽を出した。今日も涼しいうちに新たな一畝に豆を播く。去年の秋に収穫した黒豆を種にして、今年の秋にたくさん収穫できますように、二粒か三粒ずつ、三十センチおきに播く。

 黒豆は毎朝食べている。煎り豆にしてビンに入れ、黒酢をひたひたにして、柔らかくなったのを野菜サラダの上に大スプーンに一杯ほどバラバラとのせ食べている。ほんに重宝する黒豆。

 先日、遠くの方で、笛を吹くような、人が歌うような音が聞こえた。聞き覚えのある音色、あれはアオバトではないか。

 アー オー アー オ-

ドの音とソの音、ドー ソーと聞こえる。

この安曇野でこの声を聴くとは。はるか昔に聞いた声。

青年のころ、奈良の下市から大峰山の麓の洞川(どろがわ)へ、長い長い道を歩いた。初夏の太陽が大地にふりそそぎ、蒸せるような大気の香りが満ちていた。村をいくつも通り、峠を越え、森を抜け、そのとき、

  アー オー アー オ- アオー

人間の声か、山の精か、不思議な声が遠くの森から聞えてきた。どう考えても、これは鳥とは思えない。その方を眺めても姿は見えず、その声だけが静寂のなかに響いていた。

 謎の声がアオバトの声だったと分かったのは、山から帰ってきてからだった。野鳥の本を調べたら、全身緑色の広葉樹林に住むハトだという。

 

 それから長い年月が流れた。アオバトの声は聴くことはなかった。そして安曇野の初夏、黒豆を播いているとき、ささやかなコナラの林の方から、アオバトの声が聞こえたのだった。

 だがその時一回きりだった。その後、もうどこからもアオバトの声は聞こえてこない。

 

ヒュッテ・コロボックル 4

 

 

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 手塚さんは、頼まれて一人の青年を山小屋に引き受け、三か月間一緒に暮らしたことがあった。

 その青年は高卒後就職したが、数か月で会社を辞め、仕事を続けることができなかった。彼は学校時代、不登校だった。

 青年は、山小屋に住んでも特に何をするでもなかった。手塚さんは、この無気力な青年が、山小屋での生活に必要な基本的な仕事を自分ですることができるようになってほしいと考えた。ランプに灯をつける、薪を割る、米を洗って炊く、味噌汁を作る、自分の衣類を洗濯する、これらの基本は、必要に迫られてやらざるを得ないような状況をつくった。

 手塚さんは、まさかりを使って、薪割りをした。彼はそれを見ていた。「やってみるかい」、手塚さんはまさかりを青年に手渡した。青年は野性の本能を刺激されたように立ち上がった。初めての薪割り、熟練の技のようにはとても行かず、薪は割れはしなかったが、きっと上手に薪を割れるようになると手塚さんは思えた。

 青年はいつも読書をしていた。暗くなってもランプに灯を入れずに本を読んでいる。山小屋には電気はない。灯りはランプ、このランプの手入れは毎日行わねばならない。ホヤを丹念に磨き、円くきれいな炎が立つようにハサミで芯を切り、油壺に灯油を補充して、それから点火する。初めは手塚さんがこれらの作業をやっていた。5,6日してから手塚さんは少し意地悪い考えをもった。本が読めなくなるまでランプは点けない。青年はどうするか。本を閉じた青年は手塚さんの顔を見た。手塚さんは知らん顔をしていた。

 「ランプを点けていいですか?」

 それを受けて、手塚さんは一連のランプの掃除や、きれいな炎を点け方などを伝えた。青年はそのとおりに実行し火を点けた。青年は嬉しそうに笑った。それから青年は米の研ぎ方、水加減、炊く火加減も自分でするようになった。貴重な水についても認識し、手際よく洗い物をする要領もこころえた。

 一応なんでも自分でしなければならないことを自覚すようになったころ、手塚さんは三日間山小屋を離れて、青年を一人っきりにした。

 一人になった青年は、いくつものランプの手入れをし、食事をつくり、戸締りをし、炊事場をかたづけ、薪を小屋の中の運び入れ、ストーブに火を入れた。

 暗闇が迫ると、深い静寂と寂寥感が青年を襲った。青年は、静寂の中にもさまざまな音が潜んでいることを知った。自分の心臓の音が聞こえた。薪のはぜる音、獣の叫び声もきいた。風が出てきた。モミの森がざわめく。青年はじっと耐えた。

 夜明け、すがすがしい朝が来た。青年は生きていくことに自信が湧いてくるのを覚えた。

 

 三日後戻ってきた手塚さんは青年の変化を感じ取り、一緒に山を歩いた。霧ケ峰の熊笹の群落の中を行く。そこはいろんな野生生物の生息しているところだ。青年は野獣のような足さぐりで歩いた。近くでシカの鳴く声が聞えた。次第に青年のなかに野性がよみがえり始めた。顔つきにたくましさが現れてきた。

 そして三か月後、青年は元気に街に帰っていった。

 

 手塚さんのこの報告は、現代文明によって野性を失っていく若者たちに何が必要なのかを伝えている。

 

 ヒュッテ・コロボックルで休憩したぼくらは、挨拶をして小屋を辞した。手塚さんの息子さんと思われる小屋の主が、

 「ごきげんよう、お元気で、お元気で」

と声をかけてくれた。

ヒュッテ・コロボックル  3

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 手塚さんは亡くなり、今は息子さんが跡を継いでいるのだろう。息子さんの名は確か貴峰(たかね)だった。随想のなかに、一歳の貴峰ちゃんが夜中に急病になり、背中におんぶして雪の降る山道を下って病院に行った話が出ていた。あれから何年になるんだろう。今、コーヒーを淹れてくれたのが息子さんだとすれば、もう50台の年齢になるはず。風貌からすればその感じだ。

 高齢者のトレッカーは草原の道をとおって、見えなくなった。セミが鳴いている。

 僕はさっき、なんだこのトイレは、と思ったバイオマストイレのたたずまいだが、そうだ、手塚さんは、トイレのことを書いていた。「高原の随想  野性への回帰」(女子パウロ会)だった。トイレ物語だ。

 霧ヶ峰には、公衆トイレというものがそのころどこにもなかった。だから登山者は草原のどこかで隠れるように用を足した。だがそれは人目にもつく。女性はとても困った。かくして山小屋のトイレを訪れる人が増えた。コロボックルにトイレを借りに来る人が増え、狭い土間に列ができることもあった。早朝に「トイレを」と小屋の戸をたたく人もいる。公衆トイレが必要だ、手塚さんはこの切実な要求を持って地元の行政に訴えた。しかし市の返答は「予算がない」の一点張りだった。

 手塚さんは、公衆トイレを自分で造るしかないと決め、実行に移す。霧ヶ峰の麓から、一人で何回も往復して木材を担ぎ上げた。小屋の近くに穴を掘って便槽にし、掘立式のトイレをつくった。ところがある夜、烈風が吹きすさび、トイレは吹き飛ばされた。手塚さんはまた市に掛け合った。昭和36年、市は30万円の予算で公衆トイレを建てることを決めてくれた。地元の業者と手塚さんは、公衆トイレを建設した。

 すると、このトイレに一度に数十人、百人とハイカーや登山者が押し寄せる状況が出てきた。そのトイレ掃除が、手塚さんの手に負えなくなった。さらに朝まだ眠っているときに、山小屋へ「手洗いの水をくれ」と頼みに来る人がいる。「水道はないのか」と言う人もいた。

 そこへもってきて、ビーナスラインが開通した。蓼科から美ヶ原までの山岳観光道路の開通は、激しい賛否の世論を巻き起こしてきた。観光バスが入ってきて、ヒュッテのすぐ近くにできた駐車場に止まる。団体客はトイレに並んだ。トイレは荒れた。旅の恥はかきすて、節操のなさに手塚さんはあきれはてた。静かな霧ヶ峰の深々とした情趣は次第に変質していった。手塚さんは、トイレをつくったことを後悔した。

 そのトイレにまたも風が襲う。秋の一夜、突風が吹きつのり、トイレの屋根が吹き飛ばされたのだ。強風に耐えることができない設計だった。かくして公衆トイレはまたも取り壊された。

 トイレなんかない方がいい、と思ったものの、トイレのない観光地は成り立たない。手塚さんは葛藤した。その後どうなったか、手塚さんはそのあとを別の著作に書いているのかどうか知らないが、僕が違和感を抱いたむき出しのバイオマストイレは、何年か前に建てられ、ヒュッテの目と鼻の先で自然に調和せず不協和音を奏でている。このトイレ建設は手塚さんがまだこのヒュッテにおられた時だろうか。仕組みとしてはバイオマストイレが理想的だ。ただ環境と調和するような植樹がほしい。

 テラスに座ってコーヒーを飲みながら、コロボックルの昔を思い出す。手塚さんはここに独りの青年を受け入れて暮らしたこともあった。その文章に僕は深い感銘を受けた。

 

 

ヒュッテ・コロボックル   2

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        (写真:バラクラ・イングリッシュガーデン)

 

 山小屋コロッボクルの中はこじんまりして、ちょうどお昼時が終わってコーヒータイムになっていたから、三人のスタッフがまめまめしく立ち働いていた。コーヒーを淹れていた男性がこちらを見た。ひょっとしたら手塚さんの息子さんかもしれない、と思いながら聴いてみた。

 「手塚さんはご健在ですか。」

 「あー、七年前に亡くなりました。」

 「亡くなられた‥‥、ああー」

 やっぱり亡くなっておられたか。

 「81歳でした。」

 「ああ残念。」

 「すみません。」

 僕の表情を見て、「すみません」が、つい口をついて出たのだろう。

 「手塚さんから何度かお手紙ももらい、私は手塚さんの本の愛読者で、ほとんどの本を読んでいます。」

 「ありがとうございます。」

 そう言いながらも、主は小屋の外のテラスで待っている客にサイホンで沸かすコーヒーを淹れつづけていた。

 ぼくらもコーヒーを注文して、小屋の裏にあるテラスのテーブルに席をとった。前面になつかしい風景が広がっていた。車山の頂上が眼前にこんもりと盛り上がり、北側は山彦谷、その向こうに蝶々深山が、草原のうねりの上にあった。ニッコウキスゲはまだ咲いていない。レンゲツツジの赤い花がところどころにある。30年ほど前、手塚さんがくれた年賀状に、この山彦谷を、春になったらキツネが麓から上がってくる様子が描かれていたのを思い出す。山小屋の北側はモミの木の防風林で、ここでもエゾハルゼミが絶え間なく鳴いていた。手塚さんが防風林をつくることを決意したのは1959年の伊勢湾台風で小屋が倒壊してからだった。

 「私は石を積み始めた。爪を割り、皮膚を裂き、筋肉を著しく披露させるのに充分な作業が続き、石積みと並行して山小屋のまわりにカラマツを若干加えて、主にモミの樹を密植する仕事を始めた。」

 「いかに丹精を込めてモミを植えても、私は私の生涯で森を見ることはないだろう。それでもいいではないか。私の夢はけっして幻の森ではない。私が育て続けるモミの樹たちは、いつかはやがて必ず黒々とした森になるに違いない。

 深々とした緑の森の木々の葉裏に、木漏れ日が光り、風はこずえを渡り、夜は淡い灯りが窓辺を照らして更けるであろう。人々は樹の根元に寄りかかり、あるいはもたれて眠るであろう。そしてときどき思い出して語り合う人がいれば私は幸福だ。ここに昔々、男がひとり森を創った話を。」

 手塚さんは、ジャン・ジオノの「木を植えた人」に感銘し、何度も読んだと書いていた。

 「『木を植えた人』は私の矜持を支え、いつも常に粘り強く生きようとする気概を与え続けてくれる、不思議な力の湧くのを覚える。」

 手塚宗求さんは、はじめにドイツ・トウヒを100本ほど植えた。だが標高1820メートルの厳しい気象条件のもとでは、生存したのは2、3本だった。それでカラマツとモミに切り替えた。植えた本数は1000か1500か。今生き残った木々が小屋を守ってくれている。

 コーヒーがはいりました、という声が聞こえ、小屋からかわいいサイホンで淹れたコーヒーとクッキーを、洋子が運んできた。客の中の一パーティが、トレッキングに出かけた。(つづく)

ヒュッテ・コロポックル

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 蓼科からの帰り道は、霧ケ峰からビーナスラインを美ヶ原に向けて尾根道のドライブをし、松本に下ることにした。

 霧ケ峰の車山の肩には手塚宗求さんのヒュッテ・コロポックルがある。手塚さんは健在なりや。もうかなりのお年だったから亡くなられたかもしれない、なんとなくそんな気がする。

 行ってみよう、手塚さんの山小屋へ。

 イングリッシュガーデンを出て、白樺湖を経て車山に上っていくと、八ヶ岳の右手奥に富士山が見えた。車山の肩に到着したら、山小屋コロポックルの姿が見えない。かつてここにはコロポックルしか建物はなかった。それが今、食堂の建物ともう一つ別の建物が建っていて、さらに山小屋のあったところに循環式のエコトイレがいくつか、むき出しのままに並んでいる。まったく異様な風景だ。どうしてこれらのエコトイレを、この自然環境に調和させる工夫をしないのか、周囲に木々を植えて霧ケ峰の景観を破壊しないようにしないのか、と一瞬思った。

 こういう無神経なことが行われているということは、山小屋コロポックルはつぶれたのかもしれない。

 ぼくはトイレの方へ近づいていくと、トイレの向こうにコロポックルが山にうずくまるように、ひそやかにモミの木々に包まれて存在していた。小さな木の立札がオープンしていることを示している。手塚さんは、ここに小屋を建てたとき、防風林にモミの木を植えた。それは今も健在だ。手塚さんは若いころから登山とスキーの指導員としても活躍し、また随筆家としても、多くの著作を出版してきた。ぼくはそのほとんどを愛読した。

 「霧ケ峰通信」冒頭にこんな文章がある。

 「昭和三十一年の夏、霧ケ峰の車山の肩にわずか十坪にも満たない山小屋をつくって暮らし始めた。私は二十四歳だった。その秋、串田孫一さんをお招きしてささやかながら山小屋開きを行なった。このこじんまりとした床面積の上に、どのように知恵を絞っても、人を休息させ、人を眠らせる部屋や、ものを煮炊きする場所が十分に得られるはずのものではなかった。」

 土間にストーブをすえつけ、その隅の一坪が炊事をする場所だった。結局寝室として残されたスペースは三坪だった。そこに二段ベッドをつくり、なんとか八人ぐらいが横になれるようにした。手塚夫婦と客の寝床だ。

 「どうしてあんな風にごく自然に、なんのためらいも、こだわりもなく、私たち小屋の者と行きずりの人たちが肩をつけあって眠ることができたのか。今はなつかしくも不思議にさえ思えるのだ。」

 「しかし、不平不満の言葉をついぞ聞かなかったのは、むしろ全く未知な山小屋の生活体験から得るものの方が多く、山小屋とはかくも不自由で苦しいものだと思いつつも、それを帳消しにする何かが、心を豊かにさせたからであろう。

 ランプが二つ、布団が数組、目ぼしい家財はなかったが、手回しの蓄音器が南に開いた窓辺にあった。」

 貧弱な条件のなかで、手塚は山小屋の看板をあげた。ただただ若く、切ないほどに純粋だった。往復六百メートルの渓の水場から飲料水を担ぎ上げてくる。一日に十数回の水汲みも、貧困や自然の過酷さも、すべてを与えられたものとして甘受した。

 このような小さな小屋なのに、文庫をつくりたいと手塚は思う。串田孫一から贈られた何十冊の本を置く本棚をつくり、手塚はそれに「コロポックル文庫」と名付けた。

 ところが昭和三十四年、日本を襲った伊勢湾台風は、この山小屋を壊滅させた。

 「私は、全壊した小屋の床に散乱した本を拾い集めた。本は水を含んで泥の中にうずまっていた。私は一冊一冊を、瀕死の重傷を負った小児を抱きかかえるような気持ちで拾い集めた。」

 それらの本のうち、手塚が最初に取り上げたのは「若き日の山」だった。串田の本の次の一節を手塚は愛していた。

 「私は遠い他国へ来ている気持ちになって、シベリアの冬を考えてみたり、カナダの田舎を想ってみたりする。その時私は十四歳になってわずかしかたっていなかったが、どういう加減か老人の心持ちが分かってくるようだった。誰から見はなされたのでもなく、ただ自分から一人だけの居場所を見つけて、こうして火をいじりながら冬の夜を過ごしている老人が、この地上にはどのくらいいるか知れない。彼らはそれほど疲れているわけではないが、その一種の宿命的な、自ら選ばざるを得なくなった悲しみをこらえながら、半ばそれに慣れた顔つきで、燃える火を見つめている。彼らが何を考えているか、それが私には分かるような気がする。」

 手塚は、この独りだけの居場所を見つけて、火を見つめながら冬の夜を過ごしている老人こそ、山小屋の老人のイメージだと思う。そして老人に出会うたびに、いつも老人の座に自分を置き換えてみた。

 「私にも老人の気持ちがよく分かるような気がした。」

 

 ぼくは風雪に耐えてきたヒュッテコロポックルの中に入った。(つづく)

 

イングリッシュガーデンへ行ってきた

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 梅雨の晴れ間に、蓼科へ行った。

 ワイフがぜひともバラクラのイングリッシュガーデンに行きたいという。少し道を迷い、八ヶ岳連峰が前方に現れたところで、途中のゲストハウスの奥さんに道を聞いた。 

 目的地のガーデンに到着、標高が高いせいか、バラの開花はまだだったが、今の季節の各種の花がガーデンの敷地を歩き回ると咲き匂っていた。ガーデンをとりまく森の木々でハルゼミが鳴いていた。よく聴くとフィーフィーと笛を吹くような音色とジィジィジィジィという声とが重なっている。ガーデンのスタッフに聞けば、エゾハルゼミだという。ガーデンはこの蝉の声の合唱につつまれていた。高木のこずえごしに広がる青空から降り注ぐ日の光と、庭の多種多様な草花の色模様、飛ぶハナアブやミツバチのかすかな羽音に、ふっくらと心が和む。いたるところにベンチがあり、そこに座っているだけで心が満ち足りてくる。

 ガーデンの入り口近くに、青空に映える数本の喬木が目を引いた。黄緑に輝く葉がすがすがしく、小葉が風に舞い踊る。

 ガーデンの小さな木づくりの売店で、おばさんがドライフラワーの花束をつくって販売していた。

「あれは、何の木ですか?」

 おばさんは店から跳んで出てきて、笑顔で答えてくれた。

「ゴールドアカシヤという木ですよ。すごい新緑でしょう。この前までまだ芽吹いていなかったんですよ。芽を吹くとすごい勢いでもうあんなになって。三十年前に、このガーデンをつくったオーナーが、あまりに見事なのでイギリスから日本に持ち帰ってきたものです。」

 おばさんは話がどんどん湧いてくる。あのゴールドアカシアはここのシンボルツリーですよ。確かにそのとおりだ。

 おばさんの言葉のなかに大阪弁の響きがあったから、ワイフが、

「大阪の人ですか?」

と聞いた。

「わかりましたか? 私、大阪で生まれて二十歳のころ東京へ出て、音楽を教えたりしていましたが、今から三十年前、こちらに来ました。」

「私たちも大阪出身ですよ。」

「分かります、分かります。私、大阪の人に出会うと、私のなかの大阪が出てきて、心が解けるんです。心が落ち着くんです。」

 おばさんは解放されたかのように、饒舌になった。僕らも大阪弁を交えて話す。

 おばさんの作っているドライフラワースターチスの一種で、この地で栽培されており、おばさんが農家まで行って買ってくる、それを運んできてこうしてそのままドライにしている。

「私もね、もう八十になるので、来年引退しようかと思ってるんですよ。」

「いやあ、まだまだ元気ですよ。これからもシンボルレディでいてくださいよ。」

 シンボルレディ、この言葉におばさん、大笑いした。いやいやいや、もう年ですよ、と思いつつも、そう言われるとうれしい。

 シンボルレディさん、元気で続けてください、そう言って別れた。

 故郷の言葉は人を解き、人をつなげるものだ。

ヨシキリが啼く

 

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 今朝も雨かと思っていたら、止んでいたから、朝5時からラン散歩。道はまだ濡れている。

 西の山の雲が低い。ときどきポツリと頭に雨粒が落ちる。

 一枚の畑が雑草におおわれ、その草が背丈ほどにもなっているところから、小鳥の大きな声が響いてきた。

  ギョギョッシ ギョギョッシ ケケシケケシ、

とさえずると書いてある野鳥の本、

  ギョギョシ ギョギョシ ケシケシケシ、

と書いてある別の本、ほぼ同じ表現になっている。

 この季節、芦原などの水辺の丈の高い草原に巣をつくるオオヨシキリという夏鳥だ。

久しぶりにその声を聴いた。俳句では「行々子(ぎょうぎょうし)」という季語になっている。この鳥が数羽さえずると、にぎやかに聞こえる。

 この畑は、水辺ではない。耕作放棄地なのか。背丈の高い草が人間の腰ほどの高さまで茂っている。そこに巣をつくっているのかもしれない。カッコーがこの鳥の巣に托卵するのもいるらしい。

 ぼくが子どものころ、大阪河内の家の前に、学校のグランドが三つ並んでいるような大きな農業用の溜池があり、その岸辺は密生する芦原になっていて、ヨシキリが初夏のころから啼き、池周辺は生命に満ちていた。

 ヨシキリには、オオヨシキリと、コヨシキリとがいて、どちらもヒタキ科。

 コヨシキリは、

  キリキリキリ ジョビリリ ジョッビリリ

とさえずると書く本と、

  ピッピッピッ、ジッピリリ

とさえずると書く本と、

  チチ チチ チチ ジュイ ジュイ ジュイ ジュイ チチチチー

とさえずると書く本とがあり、聴く耳によって表現がちょっと異なるところがおもしろい。

 本州ではオオヨシキリが多く、北海道ではコヨシキリが優勢だということだ。

 

 今日は、黒豆を播きたいのだが、雨が上がるかな。